歩き旅から帰ってみて

歩き旅が終わって配偶者と京都で合流して、一日目は清水寺と錦市場、二日目は金閣寺と龍安寺と嵐山と伏見稲荷、行きたいとこ全部行く弾丸ツアーして帰ってきて、そこからまたあれやこれやと動き回ってしまったので、明日はゆっくりスーパー銭湯にでも行こうかしらと思っています。
新しい仕事のスタートする日も決まって少し緊張。そこはなるようになるしかないから。
旅はもともと自分の中のなにかを変えたくて始めたことじゃなくて、純粋に歩きたいという気持ちだったので、旅によってなにか変わったというとやっぱり旅したことに下心が付きまとってしまうみたいで抵抗があるのですが、自分の中で変わった、というよりは思いが強まった部分がひとつあって。
これは旅の日記でも書いたことなのですが、いくら旅をしてもやっぱり個人なんだなと痛感したというのは、どれだけ歩いて道を繋げていっても自分個人の世界まで大きく広がっていくことはなくて、疲れたとか暑いとか、マメが痛いとか景色が綺麗で感動するとか、アイス食べたいとか泊まるネカフェが快活クラブで嬉しいとか、当然なんですけど感じることは個人的なことで、なにかを悟ったり境地に達したりなんてことはないのです。
加えて忘れられないのが、蔦紅葉宇都谷峠の文弥とか、落ち武者に殺されてしまった旅人が葬られた富士松塚とか、山から転び出て帰りたい帰りたいとうめいた転び石とか、そういうのってうまくは言えないけどとても個人的なことで、ひとりひとりの無念とか悔しさ悲しさも全部個人的なことで、全体を俯瞰してしまうとわからないし、きっと東海道を歩かなかったら知る由もなかったことなんだけどたしかに悲しさっていうのはそこにあるわけで(文弥は歌舞伎の話だけれど)。
あと歩いてて色んな方に声をかけていただいて、「わたしも息子がいるからすごく嬉しくなって声をかけちゃった」とおっしゃって飴をくださった方は、きっと普通にすれ違っていたら普通の通行人として通り過ぎてしまっていただろうと思うし、それはきっとお話しした方ほとんどそうで。でも個人の人生があって、そんなのは当たり前だし旅する前からわかっていたけど、なんか実感するものがあったのです。
小説でもないのに文章にまとまりがなくってとっても恐縮なのですがつまりなにがいいたいかというと、言いたいことも実は具体的にわかっているわけじゃないのですが、要するにひとりひとりで世界はできているのだ、ということで、それを強く実感したのです。
それで、ずっとやらないとやらないとと思っていたこと、世の中の差別とかそういうことについて真剣に学ぶっていうことをやろうと思ったのです。全体主義の中で看過される個人の痛みに真剣に向き合わないといけないと痛感したというか。
いままでは仕事終わって小説読んだり書いたりして、そういう中でちゃんとそういう本を読むことってしないことはなかったけど少なくて、それってなんでかというとやっぱり自分が日本に住む日本人男性で、シスジェンダーのヘテロという文句なきマジョリティだったゆえに差別らしい差別を受けてこなかったからなんだと思うのです。つまりそういうことから目を逸らしても自分自身に直接的な痛みのないところにいるのです。だから少しそういうこと本を読んで、少し考えたりして、そうすることで、ちゃんと向き合わない自分に対する免罪符のようにしていた節があったのかもしれない。と思ったのです。
だから、これからはもっとそういうこと考えないといけないと思ったのです。そうではないと差別やいじめに消極的に加担してしまうことになる。現にいままでの自分がそうだった気がする。そうではないと思いつつ。
色々と整理がつかないまま書いていますが、これ以上書くと余計なエクスキューズをつけてしまいそうなのでやめよう。
あとこれは旅関係なく、小説をもっと本気で書かないといけないと改めて思いました。それも頑張ろう。
もっと時間とお金があれば五街道制覇や四国の八十八か所巡りもしてみたいけど、とりあえず満足して日常に戻ります。そのかわり「私に会うまでの1600キロ」という少し邦題が考えものな映画を知ったので観ようかと思います。

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