備忘録くん

ここ最近、「ことば」の暴力性について考えることがとても増えました。
小説を書いている人間として、もともと折に触れて考えてはいたし、自分が考えるまでもなくたくさんの人がそのことについて話している。だから今更こうやって書き連ねるようなことでもないかもしれないけど、ちょっといま考えていることを備忘録として書いておきたいなと思ったのです。そういう事情ゆえに全然まとまらない文章になることをあらかじめ宣言しておきます。そして伝わるように整然と書くというよりは、思いついた順番に思考を辿っていく書き方になるかと思います。
最近、Xで間違ってると思うものに対してきちんと声をあげるようになりました。前までだって、おかしいと思うことたくさんあったし、声をあげなくてもできることたくさんやろうと思って署名とか拡散とかしたりはしてたけど、きちんと向き合い切れてはなかったと思います。(と、こう書いていること自体すでに言い訳以外のなにものでもないんですが)(もっというと、かなりの恥を忍んでいうのですが、数年前までは自分はノンポリで、積極的に差別とかしないまでもかなりそういう構造づくりに加担していたりもしたのです)
なんで前まで声をあげなかったかというと、自分が発する「ことば」が間違っているんじゃないかという恐怖がかなりありました。上記のようにノンポリ歴が長かった自分は、そういうものをまともに学んだこともなかったのです。たとえば明らかな差別とか、暴力的な言動を見て、これはさすがにおかしすぎると思ってXに自分の考えを書いてみる。それを投稿する前にその文章を何度も読み返して、読み返すほどに怖くなる。これ、もしかして自分のわからない暴力が含まれてるんじゃないか、もしそうなら、誰かを追い込むことになるんじゃないか。それで、傷つけること自体も怖いけど、それによって叩かれたり、友だちに軽蔑されたりするんじゃないか、とか考えるとさらに怖くなって、結局投稿せずに消してしまう。みたいなことが頻発したりして。自分が無知すぎるゆえに自分の言葉が信じられなくて、明らかにおかしくて、自分自身怒ってるのになにも言わずにお終いにしてしまう。その免罪符としてのリツイート。そんな感じでした。だから、しっかり声をあげて怒ってる人に敬意を持ちつつ、自分がそうしないことに罪悪感とか違和感とかずっとあったりしたわけです。(そうしてこれもかなり恥を忍んでいうと、ノンポリ時代の自分はそういう人を見ても「まぁまぁ、いろんな事情があるんだから……」みたいな完全なる差別や不正に加担する動きをしていました。それが優しさみたいな感じだと思っていた。ごめんなさい)
それで、ガザでの虐殺がはじまって、TLにいろんな情報が流れてきて、岡真理さんの記事とか読んで、自分でも調べてみたりして、これはただごとじゃないとなって、そこから何日間かどきどきし続けながら、すごい考えたんです。いま起こってることは虐殺で、ここで声をあげなければ、自分は本当にそこに加担してしまう。国際社会が黙っていれば虐殺は止まらないけど、大きな波をつくれれば止められるかもしれなくて、それには絶対に頭数が必要で、ちいさくても自分はその頭数に入って波をつくることができる。いま自分がそれをやらなかったら、自分がいままで書いた小説、これから書く小説、小説を書くときの自分の中の譲れないもの、いろんな作品に触れて感動した気持ち、そういうのがぜんぶ嘘になってしまう、と思って。それで思い出したのは、小学生のときに友だちと「タイムマシーンあったらなにする?」みたいな話して、友だちが万馬券あてるっていったのに対して泣きながら喰ってかかったことがあって、「金より人の命だろ!おれと一緒にヒトラー暗殺してホロコーストをとめてくれ!」みたいなこと泣きながらいって、いま考えると暗殺なんてしていいわけがないし、でもとにかくそのときはなんか友だちが真っ先に金の話したのが本当に悔しかったりして。とか、自分の借金が世間知らずなせいで膨らみまくった時期に、人間不信っぽくなってそのときの自分の言動のせいで自殺してしまった友人がいて、そのことをずっと考えているときに、「そういえばあの友だちと、高校の頃公園で、自分の利益ばっかり考える汚い大人には絶対ならないようにしような、人にやさしく、誠実に生きていこうな」とか青臭いこと語ったこと思い出して百回後悔してもし足りないくらい後悔して泣いて、遅すぎるけどこれからは絶対絶対絶対人にやさしく誠実に生きる、そうしないといけないと誓ったこととか、忘れたわけじゃないけど改めて何回も思い出したりして。いまガザで起こってることに対して声を上げなかったら、ほんとにそういうの全部嘘以外のなにものでもなくなっちゃうと思うとそれだけは絶対にしちゃいけない、などと思ったりして。
それで声をあげはじめて、最初は「連帯します」とか言ったりリツイートしたりしてるだけだったけど考えたこというようにもして、そういうなかで、やっぱり自分はすっごくたくさん間違えたんです。というかいまも間違え続けてる。不必要になにかを貶めるような感じになっちゃったり、考えなしにハッシュタグでのツイデモ(いまはXなのでエクデモ?)に参加したはいいものの、あとからこれは自分の思ってたのとは違う、となってしまったり(といってそれに参加した人や、企画した人が間違っているとは思っていないのですが)、なんかすっごく嫌な雰囲気の投稿をしちゃったり、そのたびに投稿を消したり消さなかったりしつつ、おあああああと声を出したいほど恥ずかしくなったりするのです。
(と書きながら思ったけど、これことばの暴力性とは違う話かもしれない。関連づいてはいるけど、それぞれ別個の問題として関連づいているだけですね、たぶん。というわけでことばの話はいったん別においておこう。)
とくに自分はなんにせよ、熱してしまうと暴走気味に突っ走ってしまうきらいがあって、そこは自分で誰かを傷つけたり、なにかに加担したりしないようにひとつひとつ丁寧に考えていかないといけないことなのかなというのが、直近の課題かもしれません。
最近では、共同親権の法案が現実味を帯びてきました。世界のいろんなところで人の命が踏みにじられているし、日本の中でも執拗に執拗に人の痛みが政府とか、社会的な構造みたいな大きいものに踏みにじられている。声をあげはじめると、そういうものがだんだんもっとヒリヒリした実在感で見えてくる。力の限り抗っていきたいな、といまは思うのです。数か月前までは怖がってばかりいたけど。数年前まではなにも考えずにもいましたし。
全然なにもまとまらないけど、考えの流れるままに書きました。備忘録というより個人的な日記。小説も本気で書きたいと思います。
そんな感じでした。


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