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the story of resilience

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この記事は、
私の31歳の挫折と立て直しの一年間を
同じような壁にぶつかっている方、
サポートして下さった方、
そして復活した自分自身がまた進んでいく為
一年前に振り返って記したものです。

誰かのお役に立てますように!
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先週土曜日の朝。服を着替えてランニングシューズを履いて外に出たら、わぁっと声が漏れるほど清々しい秋晴れの空。その美しい青を見た瞬間に、一年前よりぐっと成長し、たくさんの優しさに包まれて自分はちゃんとここに立っているんだなぁという実感が心をいっぱいにした。そのすぐ後に、いくつかの違う感情が身体の内側で一気に湧き上がって駆け巡った感覚を覚えて、今頭上に広がっている空のように澄み切っているように見えて本当は複雑でもある不思議な幸福感に思わず涙が出た。都内で働く私はもうすぐ32歳になる。


あの不思議な幸福感の正体とは、何だったのだろう?と気になって、後になって何度か考えを巡らせてみた。

昨年の秋からもがいてきた仕事——いや、人生の挫折期間と自分自身の立て直し期間を経て、やっとの思いでここまで来れたんだという達成感にも似た安堵の気持ち。

そして、その期間に恵まれたたくさんの心強い味方から受け取った、人間の強さと優しさを尊く思う、雲ひとつない空を見た時のような晴れやかな気持ち。

それらの向こう側に隠れる、心にツーンとしみる辛い思い出。

それぞれの感情そのものと、感情同士のギャップこそが言葉で説明できない複雑な幸福感を生み、自然がつくる一瞬しかない美しい情景をきっかけにわっと込み上げてきたのだと思う。

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挫折期 (2020.11-2021.4)

31歳になった日の夜も私は泣いていた。突然任された新しくて大きな役割に立ち向かい始めて一ヶ月が経った頃。

2つの業界をコラボレーションさせ、自分が主体となって全てをゼロから立ち上げていくという、これまでのキャリア史上最もチャレンジングな仕事。輝いて見えるその仕事に奮い立つような勢いのある自分と、キャパシティを上回るスケジュールに体力も精神もかなり追い込まれている自分を、一日の中で行ったり来たりしていた。そんな状態に多少のモヤモヤを抱えながらも、企画を世に出すギリギリまで細部にこだわり、たくさんのものを背負ってプロジェクトを回していた。

企画リリース直前。変則的な依頼は誕生日の夜に限ってやって来る。緊迫した対応を自宅で何とか終わらせ、急いで着替えて友人が予約してくれていたお気に入りの表参道のレストランに頭を混乱させたまま向かった。到着して待ち人の顔を見た途端に緊張の糸が切れ、ほっとして涙が出た。その時私は今結構追い込まれているんだなと初めて自覚した。

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それまでの9年間は一事業の一機能を担う仕事を転々としてきた為、いつかは1つのサービスを俯瞰してビジョンを描いていくような仕事に挑戦したいという想いがあった。いつかは独立して個人でビジネスを立ち上げてみたいという野望が頭のどこかにあったからだ。会社に属しながらそれを体験できるのは、メガベンチャーと呼ばれる企業に身を置くメリット。それを一度は享受してみたかった。

コロナ渦で運良く時流に乗った新しいビジネスを本格稼働させる直前のタイミングで、そのプロジェクトリーダーを任された。着任した時、既に最初の企画リリースまで残り一ヶ月。営業、コンテンツ企画、キャンペーン運用、広告、システム、広報、法務…の全領域を自分がハブとなって社内外各担当と連携しながらディレクションし、ビジネスプランを考えながらプロジェクト進行の全体をまとめていくのが私の役割だった。

「はじめまして。業界のことは良く知らないんですが、頑張ります。」という微妙な挨拶した一ヶ月後に、予定通りたくさんのお客様に向けて企画をリリースしていた。その分野は私含め全員が未経験だったので綱渡り状態だったが、自分の目でほとんど全てを確認し、トラブルなく初回を終えられた時はじんわりと達成感を味わいながら、心底ホッとしていた。


最低限の基盤が作れると、スピードはもっと上がった。プロジェクトの拡大とともに週ごとに人が追加され、議論は複雑になった。新しいスキームのアイデアが出る度に、どうやって形にしたらいいのか、何がリスクになるのかを考えた。前回よりも今回、今回よりも次回と期待が高まり、スポンサー企業数も増え、各機能から挙がってくるトラブルに向き合いながら何とか期待に応えようと奮闘した。爆弾処理班のような毎日で、ずっと眉間にシワが寄っていた。

上がっていく期待値と反比例するように自分のエネルギーレベルは下がっていた。下がれば下がるほど、プロジェクトの中で「それは違う」「要らない」「空回りしてる」と厳しい言葉をかけられるシーンが週毎に増えた。私の力量が今の役割にマッチしていないこと、リソースが不足していること、アウトソースが上手くできていないことはちゃんと認識していた。それでも、「始まったばかりの企画だから結果が残せるまでは踏ん張るしかない。結果が出ればきっと追加リソースをもらえるから頑張ろう」と思ってしまっていた。私が厳しい状況に立たされていることは周りにも伝わっており、「あのプロジェクトは、なんかちょっと危なそうだ」と囁かれていることも耳に入っていたが、今はやむを得ないと思って特に気にしていなかった。


半年が経過した頃、過密スケジュールと慣れない指摘の日々に心身はかなり疲労していた。通常ならかわせるものも、かわせなくなってきていた私は、これまでの社会人生活9年間で一段ずつ築いてきたビジネスマンとしての自信とアイデンティティをも急速に失っていった。

元々ある程度の鈍感力は持ち合わせている人間だと信じたいのだが、弱れば弱るほど一言一言を真に受け、いつしか自分の一挙手一投足が間違っているような気がしてくるようになった。周りの人が全員敵に見え、この状態をいつ保つことができなくなるのか分からないと思える日もあった。トップスピードの流れの中で混沌を極めるタスクを紐解いてどの部分をどうやって誰に相談すべきかについて考えられる余白も作れず、ずっと信じてきた最後の砦である自分のことも半分ぐらいしか信じられなくなり、拠り所がなくなりつつあった。こうなってしまったらもう、火の車。破綻するのも時間の問題である。

それでも、ここで手を引くという選択肢は自力で導き出せず、他人に援助をしてもらう為に事情を説明するというアクションを起こすエネルギーすら湧いてこなかった。そんな自分を横目に、笑顔を振りまきながらそつなくこなせる自分をかろうじて演じ、弱っている自分をなるべく悟られないように振舞った。段々疲れてきている関係者には「あとちょっと頑張りましょー!」と自分から明るい声をかけていたぐらいだった。

そんな様子を見せていたので、「なんか最近萎縮してるね」と言われることはあっても、まさかそこまで深刻な状態だとは私自身を含めて誰もはっきりと認識しておらず、誰かがこの状況にメスを入れ本格的に手を差し伸べてくれることはなかった。


そんな時期をやり過ごしていたある日、オンライン会議で20人ほどのプロジェクトメンバーの前でプレゼンをしている時のことだった。自分が話をしている最中にどんどん頭に血が上っているような、もしくは血の気が引いているようにも思える異様な感覚が迫ってきて頭が真っ白になりそうになり、息苦しくて声がうまく出なくなった。いや、出なくなったというよりも、PCに向かって全力で声を発しているのだが声量が画面の向こう側まで届きそうになく、喉がガタガタ震えていて、息が続かない。心臓の音が聞こえてきそなほど、鼓動がバクバクいっていた。ヤバいと焦りながらも、その場はかろうじて何とか取り繕った。

今までこんなに緊張することあったかな?疲れてたからかみんなに恥ずかしいところ見せちゃったな…。とその日は凹む程度だったのだが、その嫌な記憶が後々ボディーブローのように効いてきて、翌日からどんどん自分のパフォーマンスが普通じゃなくなっていくのが分かり、翌週50人を集めてまたプレゼンをすることになっていた時間に、あの状況をなんと表現していいのか分からないが、ついにPCに向かえなくなってしまった。これ以上無理をすると自分を大きく傷つけてしまうと本能で思ったので、プレゼンをギブアップした。大勢の前でいつ攻撃されるか分からないと思ってしまっている心理状態で何かを説明することへの恐怖心が、身体に露呈していた。


今回は自分なりに前例のない異変を感じたので、自分の人事権を握っている新しい上司に最速で自分の状態を同じレベルの危機感で理解してもらい、自分を守ってもらう為の手段を考えた結果、病院に行って診断書を出してもらった。これは弱音ではないんだと周りに証明してくれるエビデンスが欲しかった。

その紙にはどこかで聞いたことのある病名が書いてあった。生まれてから健康体で病気にかかったことのない私は到底それを飲み込めないまま、本当は自分の中で明白だった”こうなってしまった原因”とともに会社に報告した。上司は瞬時に全てを理解し、半年間従事してきた全ての役割からその日のうちに私を外して遠ざけた。こうして、プロジェクトの旗を振っていた私は挨拶をする間もなく突然姿を消す形になってしまった。たった2日で起きたことだった。


それからの3週間は、仕事をしているのかしていないのかも曖昧な日を過ごした。ずっとどこか体調が悪い。日中はソファで寝ながら、なぜあんなに頑張っていた仕事を取り上げられたんだろう?(自分でそうしたのだが)という悔しい気持ちと、自分の脆さに対する情けない気持ちに苛まれていたのだが、友人と話す中で徐々に冷静になり、あまりにも狭い世界の価値観の中で自分を犠牲にし、歪んだ人間関係の中で無謀な戦いをしていたこと、そして大きなプロジェクトを安全かつパワフルに進められる環境が全く整っていなかったことにようやく気付いた。闘う相手と場所を間違えたのだ。

社内の人たちは「あなたはもっとわがままになっていいんだよ」「考えないで、心のままに」「自分の心が楽しいか、楽しくないか。楽しくないと思ったら、やらなくていいんだよ。」と言ってくれた。こんなに優しい人がすぐそばにいたのに、なぜ一人きりになり、助けを求められなかったんだろう?


自分の心と身体に起きている異常を正確に理解したいという想いが日に日に強くなった私は、本を読み、参考になりそうな動画を猛烈に探しては見て、第三者の意見を聞いて、とにかく自分の健康を最優先に、プライドと執着を意志を持って捨て、柔軟に取り入れていった。その結果、とても自然な流れで一ヶ月の休養という選択に導かれた。

役割を外れてから3週間が経過していたので、「私、休むことになったんだな」と自分の状況を最低限は受容していた。


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どん底期 (2021.4-5)

休養が始まって半月、とにかく仕事と自分の距離を取ることに残っている全エネルギーをつぎ込んだ。しばらくは自分の心の内でふつふつ湧き上がってくる「なぜ私がこうならなければならなかったんだろう」という環境への憤りと、「なぜもっと早く自分を守れなかったのだろう」という自分への罪悪感がぐちゃぐちゃに混ざったものを処理することに苦戦した。やっていたこと自体はエキサイティングではあったので、今仕事を休んでいてこの先は未定という人生先行き不透明な現実を受け入れていくプロセスでは、どうしてもネガティブにならざるを得なかった。そんな気持ちに何日も浸るのはご免だったので、飛行機に乗って遠くへ行き、非日常の中に身を置いた。いつもと違う刺激と楽しい時間によってその気持ちは多少和らいだ。

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しかし、家に帰って日常に戻るとこれまでの人生で味わったことのない謎の恐怖感が襲ってくるようになった。憂鬱や寂しさという言葉では表せない、回復した現在では思い出すのも難しいほど異常な種類の恐怖。悪魔のようだった。

ほとんどの日は必死に気を紛らわせば何とかしのげたが、最悪に酷い日は夕方になるとちょっとした心配事をトリガーにみるみる血の気が引く感じがしてきて、鼓動は心臓が飛び出るほどの速さになり、30分ほど急に居ても立っても居られないほどの未体験の状態になった。じっとしていると、私このまま死ぬんじゃないか?という気持ちになり、尋常じゃない焦りを感じて冷や汗が止まらず、この後自分の身体に何が起きるのか全く予想がつかない。それが涙が出るほど怖く、救急車を呼びたくなるような切迫感の中に押し込まれていた。30分経つと収まり、過ぎ去った恐怖を思い出して大泣きした。一体なんなんだこれは。

そんな波が次いつ何をきっかけに襲ってくるのか分からない空白の日をたった一日やり過ごすのが、本当に、本当にしんどかった。神様はすごい試練を与えてくれるな、私が何をしたんだよ…と思って耐えていた。


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そんな人生のどん底の私を救ったのは、知識と友人と家族だった。

この脳みそが悪魔に圧迫されるような恐怖体験は、脳の一時的なエラーで発生するパニック発作というもので、現実を何倍もネガティブな方向に膨らました、ただの虚像であるということが調べたのちに分かった。私の場合は診断された病から派生したものと思われ、同じ症状に悩まされた方が語る動画の中であった「突然ライオンに襲われて、今死ぬかもしれない!と脳が勘違いし、身体の非常事態ボタンを押してしまう」という表現がやけにしっくりきて、言葉で説明されたことで少し安心した。

こんなにおかしなことになっているのは世界で自分だけなんじゃないかと思うと無駄に怖くなるものだが、「こういうストレスがかかるとこうなる(可能性がある)」というメカニズムや因果関係、ある程度汎用的なものであるという事実が分かれば不安は軽減し、対策も打てる。回避する努力のしかたが分かるだけで全然違った。

この時期の私は、メンタルヘルス向上を目的とした専門医や経験者による勇気のある発信に心から救われていて、それがないと怖くて一日を過ごせない日も正直あったぐらいだが、こんなにもたくさんの普通の人が向き合ってきた課題ならばきっと自分も対処できると思わせてくれた。だから、読んでいて苦しくなるようなこの場面もあえて詳細に記載した。デジタル世代に生まれていなかったらどんな精神状態になっていたかを考えると本当に恐ろしいものだ。


私は自分のこの症状にとことん向き合い、自分で納得できるまで勉強した。30分以内に必ず治まり、脳の指示ミスなので生死に関わるようなことではないこと。人によって特定のシチュエーションで起こるから、それを避けると良いこと。プレッシャーの強い仕事をするスポーツ選手や芸能人、経営者もこれに苦しんできたこと。メンタルが弱いからそうなった訳ではないこと。しっかり休めば、必ず治ること。治った人がたくさんいること。それが光だった。

毎日自分にポジティブな声をかけ、前を向く為の行動をしていれば、いつかは乗り越えられるはず。私は大丈夫なはず!と楽観的な気持ちだけは持ち続けようとした。



心がとんでもない恐怖で埋め尽くされて自分の意思が持てなくなりそうな緊急事態でも電話ができると思えた相手にSOSを出した。そういう人は1人か2人かしかいないものだ。私は幸運にも4人いて全員に連絡し、自力でどうしようもない時に助けてもらった。

その人達は私が落ち着くまでの魔の30分間とその後の時間、電話で会話を繋いで「大丈夫大丈夫」と平気なトーンで言い続けてくれ、家まで来てくれた。気が動転してひっくり返りそうになっている私に「そんなに心配してないよ」「初めてだから怖いんだよ」「理屈さえ理解できればうまく対処できるようになるよ、あなたは賢いから大丈夫だよ」と冷静で受け入れやすい言葉を選んではかけてくれて、現実に引き戻してくれた。過ぎ去った後号泣している私に「怖かったね、がんばったね」「SOSを出せて偉かったね」と抱きしめてくれた。


と、文字に起こすと自分でも引くぐらい壮絶な日を過ごしたのだが、発作に襲われたのは結局2回だけで済んだ。それでも、いつ悪魔がやって来るか分からない恐怖にはかなり長いこと悩まされていた。休む前はまさか仕事をきっかけに自分がこんな悲惨な状態に陥るなんて、1ミリも思っていなかった。正直な話、仕事きっかけのメンタル不調=朝起きれないぐらい体がだるくなって寝たまま会社に行きたくなくなる、というイメージを持っていたのだが、全然違った。めちゃくちゃ甘かった。そんなもんじゃなかった。

不調が別の不調を呼んで、普段とは別の思考回路に勝手に路線が切り替わってしまう感じだった。私はこれまでの人生、お酒を飲んだ時でさえ、自分の思考や行動をコントロール出来なくなった経験はなかった。元気な時のメンタルがどうかとは関係なしに、半自動的にそうなってしまうように思えた病気とは恐ろしいものだということをここでは一旦強調しておきたい。

実際に後々調べると、メンタル疾患に罹患している期間は別人格のようになってしまったり、治ってからその時の記憶を思い出せないほど別の人を生きているような感覚になることがあるらしい。私は幸いそのレベルではなかったが、仮にもしそうなると支障をきたすのは仕事だけでなく、生活や人生そのもの。こんなにもダイレクトに自分に影響してくるとはつい2週間前には全く想像しておらず、その苦しみの渦中では流石に過去を後悔した。

もしも今、限界ラインを超えそうになるまで自分を追い込んでいる人がいたら、そういうリスクとすぐ隣り合わせかもしれないということを知っておいて欲しい。追い込んでいる時は高みに近づいている気分になり、私のようにやりたいことを追求できていれば尚更楽しくて疲れも感じづらいのだが、それはドーパミンで興奮しているせいだ。

そして、この辛い症状に悩まされている人が世界中にとてもたくさんいることも、これを機に知ってくれたら嬉しい。パニックといっても取り乱してジタバタするような感じではなく、どちらかというと静かに顔面蒼白になってしまう感じなので、外見からは結構分かりづらい。家族でも分かりづらいという体験談も読んだ。一時は相当辛かった私でも相対的にはかなり軽い方だったのだが、これがもし毎日のように続いていたら、それは人生の捉え方自体が激しく変わってくると思う。

「いつも精神が安定している」が取り柄だった私にとって、自分を操れなくなるという体験はとてもショッキングで、二度と味わいたくない不思議で恐ろしいものだった。

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そんな体験をしてしまった自宅という空間が嫌になったので、もう一度非日常に身を置き直そうと瀬戸内に飛んで、島を巡った。

最終目的地だった小豆島に一人で着いた日は雨。その翌日も雨で宿から出られず暗くて寒い一日を過ごすこととなり、それはそれは心細く、NETFLIXで海外ドラマを一気見していた。せっかく来たのでどうしても晴れた島を見たいという思いはあり、温泉旅館に移動して予定外の延泊をした。夕方になってようやく晴れ間が見えてきたので急いで温泉に向かい、誰もいない浴場の大きな窓から心待ちにしていたしまなみの夕焼けを見た。


その景色があまりに素晴らしく、さっきまでの心細さが一気に吹き飛んでいった。思いっきり泣きたいと思って、声を出して泣いた。私は自分と周りの為に一生懸命やっただけなのに、どうして今一人でこんなに怖くて辛いんだろうか。どうしようもなくてたくさん泣いた。

幻想的なピンクと紫色の空に向かって「私はどうしたらいいですか?」と心の中で聞いてる自分がいた。


「今は自分に優しくしなさい」

と、心の中ではっきりとした声が返ってきた。それは確かに6年ほど前に亡くなったおじいちゃんの声だった。

最近想いを馳せられていなかった天国の人につながり包み込まれたような感じがして、もっと泣いた。一人で闘っている時も、おじいちゃんはきっと見守ってくれている。

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東京に戻って、このぐらついた状況からどうにか前に進めたいという一心で、友人にもっと頼りたいと思い立ち、積極的に人に会うようになった。

仕事をしていた頃のエピソードを具体的に吐き出してみると、心優しい友人は私の代わりに怒り、泣いてくれた。それを目の当たりにした時、自分では発散できなかった何かがぱーっと放出されていき、少しすっきりとする感覚があった。普段の私はネガティブ感情を表現することが苦手で、憤りや悔しさをまだ全然外に出しきれていなかったようだ。

そこから数週間はひたすらデトックスに勤しみ、漢方薬の力も借りた。次第に自分以外に対する負の気持ちや、夜になると再燃するトラウマが鎮まっていった。どうにかこの状況を自分の力で乗り越えてやりたいと思うようになっていた。

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悔しさや怒りの気持ちが落ち着くと、今度は社会復帰への強烈な不安感に襲われた。たった1ヶ月しか休んでいないのだが、自分史上最も壮絶な日々を経てビジネスと距離を取った私は、会社、いや社会をすごく遠くに感じていた。会社のCMが流れる度に心が激しくざわつき、TVを消した。カフェでカタカタ仕事をしている人を見る度に遠い存在に感じ、自分がついこの間までこの人と同じようなライフスタイルで生きていたことにものすごい違和感を感じた。

私はPCをまた開くことができるのだろうか?オンライン会議に接続することができるのか?自問自答するも全く自信が持てず、本心の自分が「そんなのまだ無理だよ!」と言っていた。

その一方で、休養中は無給だったので(月給の6割相当の手当はもらえたが)、「もしこのままお金を稼げなくなってしまったらどうしよう」という人生で直面したことのない焦燥感も生まれてきて、心の中で相反する強い不安が同居するというカオス状態だった。

それでもここはとにかく休めることを優先して、もう一ヶ月お休みを延長することを決断した。元々二ヶ月を勧められていたのと、この一ヶ月は休養ではなくむしろ過酷な重労働だったじゃないか、と冷静に思えたことで踏み切れた。後日談によると、延長されたことで会社の人達は心配したらしいが、この段階の私は会社の人に何を思われようが、どうでも良くなっていた。

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しばらくは新種の不安と闘う日々。心理学の本を読んで学んだ、自分の「インナーチャイルド」(人がみんな自分の中に持っている、何も取り繕わない本心の自分)だけをひたすら尊重した。「⚫︎⚫︎ちゃん」と自分に呼びかけてあげると良いらしく、心の中にいるかもしれない3歳ぐらいの自分を想像してしっかり声を聞いた。聞き取ることを助けてくれるセッションにも参加した。

自分の心の問題は結局自分で状態を観察して必要な行動を選択することでしか解決しないことに気づき始めていたので、自分にどういう知覚刺激を与えれば回復につながるのか考え、思いつく手段を洗い出し、片っ端から試した。

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私は感性派の人間なので、五感を満たすことが欠けてしまったアイデンティティの回復には一番だと思い、自然に浸り、好きな音楽に触れ直し、食と料理を楽しみ、インテリア、花、ヨガや瞑想、アロマやお香を前よりもっと生活に取り入れ、リカバリーを祈る想いで感性という感性を満遍なく満たした。

感じられるものを瞑想のようによくよく味わい、過去のことも未来のことも考えず、今この瞬間だけに意識をフォーカスしようとトライした。じりじりと毎日それを繰り返すことで、ほんの少しずつ自分の心と身体に耳を傾けることができるようになってきたのが分かって、こんな状況でも成長できるのが嬉しかった。

また、身体を動かすことで心が前よりクリアになったと実感できることが多かったので、ランニングをし、サイクリングをし、水泳もし、登山を始め、前よりたくさん運動した。


それでも、朝から晩まで強い重力を受けている感覚で、全身が浮腫み、食欲がなくなり、頭は重く、身体はだるく、ソファとお友達の日もあった。春なのにダウンを着たくなるほど寒く、カイロが手放せなかった。夏は少し歩いただけでびっくりするほどバテた。体調は荒波状態だった。

が、それもこれも全部一時的なもので、自分の体質が元から変わってしまった訳ではないのだから、あとは治すだけか!と思えて、不思議とあまり気にならなかった。貴重な情報のおかげである。

こんなことを言って良いのか分からないのだが、違う個体(人間)でも類似する要因で同じような不調に陥る病というシステムへの興味がどんどん強まり、精神医学への関心が芽生えていった。

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また、この期間が後々振り返った時とても貴重な期間になることは確信していたので、毎日の日常をSNSに記録した。地獄のような日でもほんの少しは必ず存在する明るく楽しい部分にちゃんとスポットライトを当てたかった。ごはんが美味しいとか、お花が綺麗とか、今日も5分瞑想したとか、そんなことで良かった。どんな過酷な日でもきっと大丈夫!と諦めずに前を向いて一瞬も生きることをやめなかったことを絶対に忘れ去りたくなかった。今思えば大げさだが、本当にそう思っていた。

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お休みから1ヶ月が過ぎた頃、ある芸能人が私と同じ病気で療養することになったという報道がトップニュースとなり、世間を騒がせていた。その偶然には驚き、なぜ病名まで公表したのだろうと心配になったのだが、プロフェッショナル意識が高そうなイメージのあるその女性がタイムリーに公表してくれて少し嬉しい気持ちもあった。おかげで社会的に知名度は上がっただろうし、会社への説明も多少スムーズになったと思う。


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回復期 (2021.5-6)

荒波がやや落ち着いてきた頃、軽井沢へ旅行に行った。からっとして天気の良い日にサイクリングをしていたら、急にふっと降りてきた。

「私はもう今の会社でやりたいこと、全部やり切って、叶ったんだ。もう十分やった。だから、これ以上やりたいことを追いかける為に仕事しなくてもいいんだ。」

仕事のことは忘れかけていたのに、突然具体的な考えが舞い降りてきてびっくりした。


一ヶ月少し前までいつも頭のどこかにあった”私はキャリアで高みを追求していくんだ”という好奇心と執着心の塊がスパン!と割れる音がした。

この10年、経験を積むごとにどんどん上がってキリのない自分の理想との闘いを、誰に求められるでもない、誰と比較するでもない、自分自身が目標を課してがむしゃらにやっていた。一度小休止したこともあったが、どこかでその野心を捨てられず、上り調子の時ほどその呪縛は強まった。どんな難しい案件でも涼しい顔でやりこなせる自分でいたいからあらゆる難題にぶつかっていったし、自分の中で無理があったとしても差分を埋めて人並み以上に持っていけるよう陰で努力していたのだ。

でも、もうそんなことしなくてもいいかな。自分が今持っているものでやれれば、十分だな。そんな、柔らかな気持ちになった。

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そこから次第に、「仕事復帰へ不安は大きいけど引き延ばした所で余計に不安になるだけ」「この不安もどうせまた虚像なんだろう!」と思えるようになった。空白の日をやり過ごすネタも尽きてきてそろそろ辛くなってきていた。踏み出す怖さよりも、自分の人生の駒を次に進めたいという気持ちが強くなり、えいや!という気持ちで復職を決意した。トータル二ヶ月の休養。休養という名の格闘だった。


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社会復帰期(2021.6-9)

復帰した時、幸運にも会社は優しかった。自分のペースでいい、ゆっくりでいいと言ってくれた。プライバシーは丁寧に守られた。不安な時はいつでも話していい、漢方薬に頼ってもいいと、人事も産業医もフォローしてくれた。職場環境の問題は既に解決されていたが、トラウマになっていた特定の問題点については然るべき形で報告をし、上司からは前々から興味のあった新しいポジションも提案してもらった。再スタートにあたって納得感のある交渉ができ、ベストな環境調整が叶った。

ただ、格闘の日々から一転、会社のある生活に慣れるまでには時間がかかった。復帰してから問題なく業務ができるようになったと思えるまでには、結局4ヶ月以上の時間を要した。病気は半年で治るものと聞いていたが、社会復帰して元気に働けるようになるのはきっと年単位の話なのだろう。いや、一度エネルギーのマックス容量が減ると、完全に元のエネルギーレベルまで復活することはないらしい。

現在も支障は無くなったとはいえ出社日数等考慮してもらい、かなりしっかりとセルフマネジメントをしながら加減して働いている。というのも、復帰してからの再発率は結構高く、ここで無理すると逆戻りどころかもっと酷くなり、そこからの治る確率はぐんと下がるということを知っていた。そんなことになったらいよいよ自信を喪失して次は戻ってこれない気がしたからだ。

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より実務的な部分では、復帰にあたってたくさんの壁があった。ここ数年ビジネスマンとしての自分のバリューだと思っていた、いわゆる「自分の売り」の一部が、できなくなっていたのだ。

例えば、このリモート時代に、オンライン会議がダメだった。あのプレゼンの記憶が蘇ってまた緊急事態ボタンが押されそうになるからだ。攻撃してくる人がいなかったとしても、自分としては特に意識していなくても、意識の深いところで何かが焼き付いていて拒絶していることが身体の微妙な反応で分かった。

一番最初はお医者さんと面談する時の接続でさえ相当な勇気と覚悟が必要だったが、2人から3人、4人、と徐々に増やしていくうちに慣れていった。少しずつハードルを超えていく認知行動療法というものだ。

また、自分が人前で話さなければならない時は必ず上司に同席してもらい、いつでも途中交代できるように待機してもらった。こんな子供のようなサポートをしてもらうなんてちょっと恥ずかしいし、自分の得意スキルを失ってしまって残念な気持ちもあったが、そうも言っていられず、これが今の私だと受け入れ、プライドを捨てて地道にやるしかなかった。そうやって場数を重ねてようやく10人、15人のミーティングを自分が仕切れるまでになった。


在宅が主流の時代だったのが救いだったが、復帰した頃は30分PCに向かえば1時間休まないといけないほど、瞬く間にエネルギー残量が減った。当初はほとんど仕事になっていなかったが、疲れる前に休憩することを心掛けて工夫して過ごした。今では丸一日出社してもその日の睡眠が十分に取れれば問題ない。


メンタル面での意外な壁もいくつかあった。復帰したての頃は会議でシリアスなシーンに遭遇すると気分が悪くなった。ほんのちょっとのプレッシャーですぐ焦り、悪気のない他人の言葉に簡単に傷ついた。全体的にネガティブが膨らんで見えるようになっていて、上司には真剣に考えすぎだよと言われていた。これも仕方のないことだと思い、時間が緩和してくれるのを待った。


5ヶ月が経とうとする今はうまく休みながらやればかなり不自由なく進められるようになり、こつこつと重ねた地味な行動が結果につながることも出てきて、成功体験を味わい始めている。

これらのリハビリのプロセスで大切にしてきたのは「自分を元通りに復元したい」という思考や完成形のイメージは一旦脇に置いて、新しい自分をそのまま受容し、今の自分のやり方を別に新たに作っていくという心構え。過去は過去。休む前の自分とは違う自分を創り上げていかなければ、同じことが起こるからだ。

そして、とにかく焦らず、ゆっくり、着実にやること。インナーチャイルドの自分と相談しながら、ハードルの高さを微調整すること。今日より明日が良くなくても良い。今月より来月が良くなくても良い。波を超えた先に今より元気な状態があると信じている。

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立て直し期 (2021.9-11)

できなくなったことをできるようにすることも重要ではあるが、そもそもこうなってしまった根本原因のうち、環境や他人に起因するものではない、自分に起因するもの(=自分で変えられるもの)についてはこれまでのやり方に固執せずきちんと刷新していく必要があると思っていた。

というのも、結構ハードな競争環境を長らく生き抜いたプロセスで染み付いてしまった考え方や仕事のやり方の癖について、改善したい気持ちはありながらも根本改善のチャンスがなく、長年見て見ぬふりをしてきたからだ。それにメスを入れなければならない時が来た。

具体的には、
・定時を過ぎても対応してしまう癖
・即レス即対応する癖
・自分の生産性が爆上がりする超集中モードの時間に一気に仕事をやる癖
・自分で納期を早める癖
・自分でやった方がクオリティが上がると思うものは自分でやりたくなる癖
・仕事を依頼された時依頼者の期待値を超えたくなる癖
・ミスを防ぐ為に何度も何度も見直しをする癖
・ネガティブ発言を誰にもせず抱え込む癖
・優等生ポジションを取ろうとする癖

…挙げだすとキリがないが、まとめると、仕事になるとせっかちになり目の前にあるものは最速で完了させ、他人への慎重な気遣いと厳重な質の担保をしてしまうことが私の癖ということだ。

見方を変えると、仕事が早くて他人を気遣い、ミスも少なくクオリティがそこそこ高いことは私の強みであり、周囲の信頼を獲得して大きな仕事ができた所以でもあったはずなので、良さを失いたくはなかった。

だからこそ、0か100かではない、強みも自分の心地よさも両方取れる良いバランスを探していこうと思った。それはそう簡単なことではないのだが、今はどう見ても絶好の軌道修正タイミングであり、どんなことがあっても私の芯にある真面目気質は変わらないのだから、せめて行動から変えなければというかなり強い危機感があった。もうあんなに辛い一連の経験は二度としたくない。だから、過去の習性はもう過去のものとして、ひとつひとつ新しいやり方を創ってみることにした。


では、そのバランス調整を具体的にどうやって行ったのか?

私は自分が自分のマネージャーであるかのように、仕事のある生活をセルフモニタリングして、毎日振り返り、どういうシチュエーションでその癖が発動するのかを改めて観察した。癖が出てくる度に、”このシチュエーションになったら→こうする”という具体に落とし込んだ行動指針のようなものを自分の中で設定していった。

例えば、
・言い訳なしに定時で上がること
・メッセージアプリの通知を平時からオフにすること
・定時後はアプリを開かずレスをしないこと
・明日でも良いメッセージは翌日に返すこと
・超集中モードに入りそうになったら休憩し、超集中するのは1日2時間までにすること
・納期は納期通りで提出すること
・勢いでタスクに取り掛かる前にどこをアウトソースできるか一度考える時間を取ること
・制作物を進める時は誰も求めていないところまで質を追求していないかを自分に問うこと
・メールを送る前に見直すのは1回まで
・仕事を依頼された時は上司に一言相談し、プロジェクトに携わって欲しいと依頼された時はレポートラインがしっかりとしているものか、上司に守ってもらえる体制があるかを確認すること
・上司には本音発言をし、弱い自分を見せても大丈夫なぐらいの信頼関係を築くこと
…と言ったものだ。

パターン別に予め決めておけば、このボールが来た時はこっちに投げ返す、といった具合に対応できて便利だし、都度都度判断がブレなくて仕事が格段にしやすくなった。心の中で「私のルールはこうなってるので、すみませんね」と言って割り切れるので、変な罪悪感を感じることもないという利点も大きい。割り切りスイッチのようなものだ。


行動にちゃんと落とし込めるのがすごいよね、と優しい人達は言ってくれるのだが、あれだけ痛い目を見たらもうやるしかないのである。

自分の身に起きたことには必ず意味がある。これぐらい改革してやらないと気が済まないわ!というのが、私らしいところである。


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新しいキャリア観

リハビリを経て新しいポジションも軌道に乗ってきた最近、キャリア観もまた進化してきている。

私はこの9年間、中小企業営業、戦略とサービス開発、法人営業、プランナー、営業企画、イベント企画と同じ会社の同じサービスに携わったままで職種を転々と変えながらプロジェクトを兼務するというワークスタイルで、社内でも比較的珍しいキャリアステップを踏んできた。主務のほとんどの仕事で自分が第一線に立ち、クライアントや社外のプロジェクトメンバーに対峙したり、社内の関係者を引っ張っていくような華やかでエキサイティングな仕事だった。

しかし、キャリアを抜本的に見直す最中に、物凄く的確なアドバイスをくれた人が社内にいた。

「あなた自身が攻めの性質を持っているから、攻めの仕事をするとやりすぎる。守りをベースにした仕事の中で、攻めるポイントを見極めていった方がいい。」

本当にその通りだなと思った。普段仕事をしている時間はやたら自己評価が低い私は、派手な仕事をすると、つい力が入ってやりすぎるのだ。


物理的に?電池のMAX容量が減っていることを念頭に置いた今、今後も同じかそれ以上のお給料を頂いていくことを考えた際、効率性(省エネかつ高パフォーマンス)が最重要ポイントとなってくる。

いろんな職種を試してきた過去を振り返ってみた時、最も省エネでこなせる、かつ周囲からの引き合いがあるのは、「みんなが面倒くさがるものを仕組み化する」という類の仕事だった。


例えば、地方営業時代に営業の業務改善プロジェクトを立ち上げた時は本社の生産性改善部署が参考にしたいと視察をしに来てくれたし、ローカル任せになっていた営業研修を組み立てた時は本社の人事が目をつけてくれてそれが全国のスタンダードになった。100人合宿企画プロジェクトでバックオフィスのリーダーをしていた時に一緒に働いていた上司からは、後々自分の下に来ないかとこっそり誘われた。

思い返せばその特定の筋肉をメインで使っていた時が最も貢献度が高かったんだろうなと思える、象徴的な出来事がいくつもあった。もちろんそれを認知はしていたのだが、そこに甘んじてはいけない、本当のジェネラリストになるまで好き嫌いはしてはいけないという変なストイックさを貫いていたように思う。

つまり、それが私の中で最も競争力のある、つまり希少性があり需要のあるケイパビリティであり、私の場合は悲しいかな、その仕事が自分にとってエキサイティングなのかどうかとは全く別物だったのである。刺激と心地よさの違いだった。


だから今回、営業企画という仕組み化によって事業の生産性を上げることがミッションである、二列目、三列目の仕事に初めて舵を切ることにした。正直、派手な仕事ではない。でも、いつもどこかで抱えていた「得意に甘えてはならない」という謎のしがらみから解放され、自分らしくパフォーマンスすることがそのまま認められ、ここにきて適材適所という言葉がぴったりのフィット感を味わえて、今本当に幸せである。省エネかつハイパフォーマンスを初めて体現し、もしかしてこれが仕事というやつだったのか?と思うほどである。

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還元

32歳目前の今の私が一つだけ誇れることがあるとしたら、それは底力かもしれない。

全てのことに意味があると信じて自分の身に起こったことや自分からは逃げず、諦めず、挫折から這い上がる力。力づくではなく、できる限り状況をフラットに見て理解し、受け入れ、しなやかに戦うというやり方で。

今回は流石にへこたれそうになったが、それでも自分を諦めることはできないし、一日もしなかった。良い時も悪い時も、それが世界で一人しかいない自分であることを穏やかに認めた。


そんな底力の一種だと思うのだが、特に意識しなければ外にベクトルが向いている人間なので、自分の経験から得られたことは他人に還元する形で昇華したいという強烈な意志がある。

他人に還元するには、経験やインプットして得られたラーニングを棚卸し、他者が理解できるように体系化・汎用化する必要がある。

今これを書いているのもその一つで、自分の経験をざっとなぞって他人に擬似体験してもらえるものに作り変えている。

そして、それをアウトプットしたり、交換したりする場が必要である。


そういう経緯で、復職後、世の働く女性が支え合える小さなプラットフォームとして、仲間と一緒にworkshopを立ち上げた。

ビジョンがあって、真面目で、知性があって意欲的な女性ほど、理想に近づきたくてつい頑張りすぎてしまうのである。(自分で言うのもなんだが、でも本当にそう思う。) そんな人が私の周りにはたくさんいる。

そして、それは置かれる環境やタイミング次第で、自分の限界を超えてしまう可能性があると思う。さらに、その結末に向かってひた走っている渦中では視野が狭まり、自分でそれに気がつき、自分をうまくコントロールすることは結構難しいと思っている。


そうならない為には、どうしたらいいのか?

私が今回の経験から導いたのは、この2つ。
①日頃から自己洞察力を高め、自己観察をすること。
②前向きに人生やキャリアの深い相談ができる相手やコミュニティを複数作っておくこと。
今のところ、これに尽きると思う。


①ができれば、まず自分の電池の総容量と、それに対する使用量を把握できるようになってくる。それができれば、適切にアクセルとブレーキを踏み分けることができる。頑張りすぎてしまう自分を自ら制御することだって、これだけ頑張っているじゃないかと自分を肯定し労わることだってできる。

人生に大事なものはたくさんあるし、ポテンシャルや情熱があればあるほどそれは尽きないのだが、優先順位をつけなければ投資するエネルギーのアロケーションを間違ってしまう。それの適正化は、普段の自己理解によってでしかできない気がしている。

叶えたいことはこれだけあって、自分の容量はこれぐらいだから、その容量に収まるようにこの順番と配分で投資していこう。これが出来るようになるといいなぁと思う。私もトライしている最中だが、前よりはそれができている気がして、ちょっとだけ生きやすい。


②ができれば、周りが見えなくなってしまった時に第三者の視点で電池残量をアラートしてもらえたり、そんなに頑張ってるんだね、と肯定したりしてもらえる。その声かけにどれだけ救われるか、きっと痛感することがあると思う。そして、相手からも刺激を受け取り、狭くなった視野を広げたり、一歩踏み出すきっかけをもらえることも間違いない。①を自分だけでなく他人と共有するイメージだ。


この2つを忙しい日々の中で自力でやるのは難易度が高く、かなりの努力が必要だ。実際以前の私は出来ていなかった。だからこそ、苦境を経験した後の自分自身がコミュニティとナレッジのプラットフォームとなってサポートできたらいいなという想いで、自然とworkshopという形態に行きついた。これを生み出せたのは間違いなく試練のおかげ。その為にも必要な時間だったんだと捉えられれば救われる想いである。

未来がある若い女性に輝いてもらう為にここまで書いてきた経験とラーニングを生かし、私自身も同じ価値観の仲間とゆるく繋がり、支え合えるきっかけを得られたら、とても嬉しい。

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行き着いた幸せのあり方

表参道で泣いた日から来週で一年が経とうとしている。私の生活はジェットコースターのようにアップダウン(順番的にはダウンアップ)して様変わりし、今は社会人になってから最も落ち着いた日々を送っている。価値観も大きく変容し、ギラギラした私はもうおらず、自分にも優しくできるようになった。

闇の中で代わる代わる襲ってきたあの負のもの達はどこか分からない所にいってしまい、また思考回路が正しい路線に戻り、平常運転をしている安堵感に浸っている。


うまくいかなかったのは、全部、一番大切な健康が侵されたせいだったんだ。自分の中で優先したいことがありすぎて、優先順位が分からなくなって、見失っていた。間違いなくこれが真因だった。一番失ってはいけないのは、健康なんだ。だから、心と身体の健康という全ての活動の基盤をちゃんと大切にできる生活をつくっていこう。これが31歳の結論。

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人生の試練なんてこれからまた何度でもあるんだろうし、もっと壮絶な試練に立ち向かっている人は世の中にたくさんいる。人間って強いんだなぁと思う。

私なんて少し頑張りすぎて小休止しただけに過ぎないし、来年再来年になったらまた全く別のことで悩んでいて、この経験も忘れていく程度のものなのかもしれない。

だからこそ、自分に本気で向き合い、"普通であること"の有り難みを、痛みを伴って知ったという経験、キャリア観も人生観も大きく変わった31歳の挫折と立て直し——resilienceのストーリーを記憶のあるうちにしっかりと言葉にするに至った。こんな失敗を自ら人に晒すのはいかがなものかとも思ったが、周りが後押ししてくれた。戦うからこそ傷も多いが、学びの多い自分の人生は結構好きだなと思う。


このストーリーが同じ境遇に遭遇した他の誰かや、別の試練にぶつかった未来の自分自身にとって些細なヒントとなり、少しばかりの影響を与えられた時に初めて試練が本当の意味で昇華される。「いろいろあったけど、あの時頑張って本当によかったね!ありがとう!」と自信を持って自分に言える日が来たらいいなと思う。


2021.11.17



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