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利賀というところ。

「近頃の都会は便利や合理性を尊び、無駄を排除しようとしているのではないか。
無駄をなくそうということは、すなわち最大公約数に入るものだけにしていくということだ。

つまり、そこに入りきれなかった少人数の意見は表には出にくく呑み込むことになってしまう」

利賀に来て、ひと月が経とうとしていた。
いつものリズムをかなり崩して、それが面白くもありストレスにもなっていたりした。

いろいろなことを受け入れる懐を感じる利賀を来る前よりは圧倒的に好きになっていたけれど、周りにいる移住を決めた人やハマっているとしか言いようがない人のような決め手が見つかっていなかった。

痒いけれども痒い場所が分からなくなってあちらこちらを掻き回るように、ここだというところを探していろんな人に利賀の良さなどを聞き続けていた。

どの言葉も心の扉を叩くには至らなかった。
戻ったらそのうちその生活が普通になって、また少し遠い場所だと感じる気がしていた。

立ち去る日にちが現実味を帯びて来た頃、急にいろんな人と交流する機会が増えた。
そんな中、改めて移住している人と話をする機会を持つことができた。

冒頭の話に戻る。
都会だけではない。
今は小さな町だって無駄を省こうとしている。便利を目指してやってきたから仕方がないことだとも思う。そして、今はそこから必要のないと思うものをいつまでも持てるほど余裕がないということ。

そんな中、無駄を無駄だと思わないことが逆に新鮮に映るようにもなっていた。価値観の逆転。

いろんなものを受け入れるということは、無駄も受け入れるということ。

ここでは最大公約数のような数を出すなんて必要なくて、どんな小さな素数の人やどんな大きな素数の人だって存在しているのが当たり前なんだという、安心感がある気がした。

割り切る必要なんてない。
そのままの数でいられる。

"人はそれぞれが違っていて、素晴らしい"

頭では分かっていても、本当に感じられているだろうか。
この場所はなんとなくの綺麗事ではなく、少し泥くさくも成り立っている土地な気がした。

あくまでも外から見たことだけかもしれないからと、長く土地に暮らす人にも話を聞いてみた。(もちろんそれで全てが網羅できているわけではないけれども)

外から来て変化を持ち込む台風のような存在は、どう思われているのか。

「関わらないけど、知ってはいる」

それは、見守りにも近いくらいの放任主義のように感じられた。
移住者側もそれを肌で感じているようで、あまり感じることの出来なかった自由を与えられたようだ。

何かに溶け込まなくてはいけないと思いながら、平すようにしていくと飛び出てしまい生きづらさを感じる人に。
居場所を求めてしまう人に。

もちろん嫌なところだってあると言うが、一度ここを居場所と決めることを勧めるのも悪くないと思えてきた。

やっと心の扉を叩くことができた気がする。
新しく見える風景も楽しみにしている。

大きな意味を持つ一ヶ月だったかもしれない。

何度も痺れた劇団SCOTさんの代表作に倣って…
幕!!

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