もどかしい

心を、動かされるときがある、人には。ぽろぽろ、と涙がこぼれおちて、言葉が追いつかない。あふれ出てくる感情に思考回路が追いつかなくて、追いつかなくて、もどかしく思う。この感情を明確に伝えられるように言葉にしたくて、それを探そうとするのだけれど、探そうとしている間にそれはするすると抜け落ちていってしまう。

偶然ふとした気まぐれで映画館に立ち寄り、たまたま上映していた『マイ・インターン』という映画を見た。前情報も何もなく見始めたということも手伝ってか、とても深く心にささった。あたたかくて、優しくて、でも現代的で、いまの社会でリアルに起こりそうな題材をていねいに描いていた映画だった。

こうやって、いま、どこにでも起こりそうなことをていねいに描くつくり手の方々を尊敬してしまう。それはともすれば当たり前にもなってしまっているようなことで、男女の社会的立場や家庭での関係性であったり、職場環境だったり、仕事で使われるツールであったり。

現代的であるということは、それ以前の時代をきちんと捉えていないと、かつ少しずつ変わっていくささいな変化に敏感でいないと描けないことだ、と思う。まずはそういう視点があって、ああ、これは“現代人”へ送ろうとていねいに描かれた映画だなと感じた。

映画の中で、70歳の男性が、亡き妻の思い出を振り返りながら「結婚はいっしょに年を重ねていくということだよ」と第三者に対して優しく語るようなフレーズがあったと思う。大人になってから、映画などの中にあらわれるセリフに、ときたまズシン、と感じいることがある。セリフ自体そのものというよりも、ああ、こういうセリフを書いている人がいるのだな、というところかもしれない。

どんなものも、ゼロからそこに「ぽん」と浮遊してあるものではない。生身の人間がいて、その人がある事象をそう捉えることで、そういうセリフが生まれる。哲学的なセリフも、少しかっこいいセリフも、映画やドラマで出てくるセリフも、脚本家の方や演出家の方や放送作家の方、いろいろな方が日常生活やイベントや、日々のいろいろなことを実際に経験するなかで生まれてくる、生きた言葉だ。だから重みがある。

先の、「いっしょに年を重ねてゆくこと」というフレーズも、何かしらの経験があって、紡ぎだされた言葉なのではないか。そうやって、世界をあたたかく、見ている人がいるのだな、そしてそのフレーズがこうして世界で上映される映画に採用されているのだな、ということに、また感動してしまうのだ。

どの映画にどのくらい感動するのかということはもちろん人それぞれ違う。同じ映画か好きだと言っても、どのポイントにどのように感動するのかはまた違うだろう。それ自体はそれでいい。ただ、たまに、個人のいろいろなタイミングとあいまって、そのタイミングでその映画を見たことがストン、とハマる感覚がある。今回がそうだったように。

映画の中の配役の人々と、それを演じる俳優の人々と、そのストーリーを描き、またその制作に携わる人々の人生を想像して、エンドロールが流れている間にも、ぽろぽろと涙がこぼれた。大人になってから、こういう感動の仕方をするようになった、と思う。

SFの世界のように派手なストーリーがあるわけでもない。世界が滅亡しそうになって救われるわけでもない。魔法使いがあらわれるわけでもない。なんでもない日常のストーリーが、一番心に響く。個人的には。こういうところをていねいに切り取って、向き合って、それでいてきちんと共感や感動を生む作品をつくる人を、本当に、純粋に尊敬してしまうのだ。

帰りの夜道をひとりで歩きながら、頭のなかにあるこの、心が動いた感じ、を逃がさないようにと必死だった。「心を、動かされるときがある」と冒頭の一文だけを頭の中で反芻しながら、足早に歩いていた。

いつだって、そういう、本当の感動はすぐに逃げてしまう。ああ、と思う、ぽろぽろ涙がこぼれたときのような感情は、言葉にしてつかまえようとするとするすると、逃げてゆく。今日もそれを、もどかしく思う。


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