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ポエトリースラムジャパン2016 日本代表・大島健夫 インタビュー


 朗読ライブはもちろん海外の詩祭にも参加するなど、ポエトリーリーディングのキャリアを積んでこられた大島さん。『うなぎ』『ハムを買ってください』をはじめ、一度聞いたら忘れられない摩訶不思議な世界観、かつ人生の深淵を覗き込むような凄みのある作品、そしてそれらを朗読する揺るぎない声の力で、多くのファンを得ています。まずはその経歴からうかがいました。

初めてプレッシャーを感じた、ポーランド大使館のイベント

 初めて詩を書いたのがいつか、判然としないんですが、たぶん小説の方が早いんですよ。22、23歳から小説をポツポツ書いて、ウェブや小さな媒体に載せていたんですが、詩を書いたのはおそらく27歳くらいじゃないですかね。

 とはいえ、どこかに発表していたわけではないのだとか

 たぶん、あまり自分の書いたものが気に入らなかったんじゃないですかね(笑)。今考えると結構現代詩っぽい内容です。ストーリー物じゃなくて、確か…ほんと「夜になって気持ちの中でいろんなことが起こる」みたいな、情景描写がたくさんあるような詩だった気がします。

 その後も、こそこそ書いてはいました。そのうちのいくつかはウェブ媒体とかに載せたかもしれない。とにかく書くだけだったんですよ。朗読ということを意識して初めてやったのは2007年の「詩のボクシング」神奈川大会です。僕の好きなアメリカの小説家にシャーマン・アレクシーという人がいまして、詩人としても素晴らしい。彼が向こうのポエトリースラムで非常に強いというのを知って、日本にも似た大会はあるのかと思っていたら「詩のボクシング」に行きあたりまして。

 それで「なんとなく出たくなって」出場。

 予選で読んだのはお葬式の詩だった。「田舎のでかい家で、男の人の葬式で、酒が回ってみんなが故人のことをいろいろ喋ってて、一方隣の部屋に祭壇があって暗い中に故人の遺影がある…」そういう詩ですね。本大会ではミミズが出てくる詩で、道路で干からびかけたミミズが「お願い私を助けて、助けてくれないと死んじゃう、ほら私あなたの初恋の女の子に似てるでしょ?」とかそんなことを言ってるうちに鳥が飛んできてミミズをくわえて向こうへ行っちゃうっていう。

 初ステージの感想はどうだったのだろう。

 単純に、お客さんが笑ってもらえたのは覚えてますね。予選の印象が結構強烈で、タウンホール地下の音楽室みたいなところに、なんか80人くらい集まって。そこにいたのが青木研治、鶴山欣弥、本大会に進んだのは川島むー、晴居彗星…。いろんな人がいるんだなと。

 今から考えると技術的に稚拙だったかもしれないですけど、人前に出て読むのは違和感なく、苦痛ではなかったですね。そんなに緊張したという記憶がないんです。むしろある程度やってからの方が、失敗した終わりだっていう思いがあるけど、その時はなんのプレッシャーもなかったんで。負けても痛い思いをするわけじゃないし(笑)。楽しかったです。

 それに、わりと僕に勝った人って素晴らしい人が多かったんですよ。その後も活躍する人、その大会でチャンピオンになる人が多くて。悔しさはあったけどそんなにヤダとかっていうのはなかったですね。

 「一回だけのつもり」で出場した詩のボクシングだったが、そこから朗読活動が広がっていく

 出場すると知り合いができるんですよね。そのあと鶴山欣也さんがやってる「Jet Poet」というイベントに呼ばれました。そこでまたいろんな人に会い、自分で主催イベントを始めるのが2008年くらいですね。

そんな経験のなか「朗読すること」への自覚はどう育ってきたのだろう。

 最初に芽生え始めるのが2010年か2011年頃でしょうね。転機になったのが、2011年のポーランド大使館主催のイベント。ポーランドの詩人が各国を訪問してその国の詩人と共演するという企画で。日本では六本木のクラブ、Super Deluxeで行われたんですけど、三角みづ紀さんが僕に声をかけてくれて。三角さん、伊津野重美さん、雪舟えまさん、橘上さんといった人たち。オープンマイクもあって、ジュテーム北村さんとかも出てましたね。

 ポーランドの詩人たちは向こうのトップスラマーで、お客さんも半分くらい外国人。僕が日本側の先鋒だったんですけど、ここでやらかしたら終わりだな、腹切って死ぬしかないなと思って。負けたら死んじゃうしかない、くらいのプレッシャーを持ったのはそれが最初です。それまでは、失敗しても自分がひどい目に遭うだけで済んだんですよ。でもそういうことでは済まないっていう気持ち。

 日本の詩人っていうのを変に見られたくなかったし。どういうことで自分が呼ばれたのかと考えた時に、一発目の気合いとか表現圧力みたいなもので負けちゃいけないって気持ちになりましたね。

 その日の出来栄えは、自分でも評価できるものだった。

 あとになってあの時の実力考えたら、上手くいったと思える数少ない舞台。そのとき初めてヨーロッパのトップスラマーたちを目の前で見て、素晴らしいなと思ったけど、これはどうやっても勝てないわけじゃないなとも思ったし、三角さんとかのパフォーマンスも、全然引けをとらないと思ったし。

不可思議/wonderboyという存在

 そしてもうひとつ大きな出来事は、ポエトリーラッパー・不可思議/wonderboyとの出会い。 

 猫道(スポークンワード・パフォーマー。第一回PSJから司会・運営として関わる)さんに呼んでもらったイベント「猫道節」の会場にワンダーがいて。いまコンピレーションCD作ってるからぜひ入って欲しいって。それが初対面、2009年ですね。で、ワンダーん家に行ってレコーディングしたんです。

 埼玉の田舎の、駅から彼の家までの道すがら、ワンダーが「俺、今度のSSWS(シンジュク・スポークン・ワーズ・スラム)絶対優勝するんすよ」ってずっと言ってて。なんかいい奴だなこいつ、と。なんかこう、山っ気のある人間好きなんで、僕(笑)。ワンダーの話に小林大吾とか鈴木陽一レモンとかいろんな名前が出てくるんですけど、そのときはまだ知らなくて、そういう世界があるのか、みたいな。で、そのCDのリリースパーティで三角みづ紀さんとも初めて会ったんです。

しかし不幸なことに2011年6月、不可思議/wonderboyは24歳の若さで亡くなる。

 そのとき、亡くなった人間に対して生きている人間ができるのは、ちゃんとやることしかないな、という思いがありました。ポーランド大使館のイベントも、ワンダーが生きていたら彼がここに呼ばれたんだろうな、とか思って。そういうのも少しプレッシャーに感じたのかもしれませんね。

それは「生き残った者の責任」というような感覚。

 一緒にCD作った俺がダサかったら、のちのち「不可思議/wonderboyっていうのはあんなダサい奴と一緒にやってた奴なんだ」って言われるわけですよ。逆に俺が一生懸命頑張って、「あの素晴らしい大島さんとやってたワンダーは素晴らしかったんだろう」って言ってもらえたらいいなと。もう公の場では絶対に彼の名前を出さないって決めてたんだけど、今なんか出しちゃったけど(笑)。彼の存在っていうのは、あると思います。

最後にふたりが交わした会話は「後味のいいもんじゃなかった」という。

 ワンダーが電話で「オープンマイクとか、ダサいっすよね」って言ってて。「大島さんはいいんすけど、大島さんがやってるオープンマイクとかってダサいじゃないですかー」って。困ったことに、彼が言った意味が割とわかったんですよ。でも、やっぱり俺は話しましたよ、自分がどうしてオープンマイクをやってるか。どこまで伝わったかわからないけど。ただ、それで仲が悪くなるとかじゃなくて。ワンダーって結構いろんな人にそういう口きいちゃう人だったから。

 そのあと高田馬場のBEN’s cafe(ベンズカフェ:2011年の閉店まで、定期的に詩のオープンマイクが開催されていた)がなくなる時に、ワンダーが来てて。「よう」「おっす」みたいな感じになって、話しに行こうとしたら先に誰かがワンダーとしゃべり始めちゃって、あとでしゃべろうと思ったら、もう帰っちゃってた。

 不可思議/wonderboyが亡くなったという知らせを聞いたのは2011年、詩のボクシング神奈川大会の前日だった。

 猫道さんからメールが来て「死んだらしい」と。そりゃびっくりしますよね。それで、いやもう呆然、なんかあの、腹がたつとかびっくりするとかより、意味がわからないじゃないですか。理解できないですよね。なにそれ、みたいな。あまりに意味わからなくて、俺、ワンダーに電話したんですよ、本当かどうか。だって嘘かもしれないじゃないですか。もちろん誰も出ないけど。

 それで翌日、横浜の関内ホールに行って。なんか控室で顔が怖かったみたいで、誰も話しかけてくんなくて。トーナンメントの三回戦くらいだったかな、ラッパーと対戦したんですよ。「俺ラップやってんですけど」とかそのラッパーの彼がステージで言い始めて、無性に腹が立って。何をこんなだせえ奴がラッパーとか名乗りやがって、と思って。完全に八つ当たりなんだけど。普通じゃなかったですよね。終始一貫、腹が立ってしょうがなくて。

 ワンダーが死んだことに腹を立ててるわけじゃないんです。そうじゃないんだけど、自分の中の始末のつけられなさのはけ口をどこかに求めないと、もう、どうしようもなくて。誰でもいいからぶっ飛ばしたいみたいな。

 でも一方で、冷静なところもあるんですよね。終わったあとは、ちゃんと他の出場者と話をしてるんですけど。あと、あん時に俺ね、脱臼癖があるんですけど、ステージの袖にいてペットボトルを取ろうとしたら肩が外れたんですよ(笑)。それも強烈に覚えてます。腹立ててステージに上がった空気感と、肩外れてやべえっていう、その二つですね。

 2011年頃が、大島さんの大きな転機だったことは間違いなさそうだ。

 詩の言葉の力を意識し始めたのもその頃です。それまでの人生で物語とかを読んで得てきたカタルシスと、質は違うけど同じくらいの感銘、感動を素直に詩から受けられるようになった。ポーランドのイベントの時に、大使館の人からいただいたチェシュワフ・ミオシュの詩集がすごく良くて。「大きかったものも今では小さく見え/王国は雪に覆われた青銅のように色褪せていった/かつての驚きももう驚きではなく/天空で星々も大地もめぐり輝く/岸辺の草に身を伸ばし、昔むかしと同じように/私は木の皮の舟を水に浮かべる」っていう詩があって、なんかこう、バーンと来ましたね。ああ、生きてるってこういうことなんだって。

 それまでも詩というフォーマットでやっていたけど、自分のバックボーン、元の素養や人間性だけでやってたところがあると思うんです。詩っていうものについて考えるようになりました。三角さんやいろんな人と知り合って、詩集をちゃんと読み始めたのがこの頃でした。

 2011年から2012年頃っていうのは、僕のプライベートがさっぱりうまくいかない時期で、いろいろと辛いことがあって。ただ、すごく辛かった時に辛いって言う代わりに、その感覚だけを抽出して自分の中で作品にして、人前できちんとやりきれたっていうことがすごく自信になりましたね。作ることで自分と向き合えた。自分が人間的に成長したのを感じましたね。その頃作ったのって、今も読んでる作品多いですけど、『24時間スーパーの恋』とか『みいらの世界』とか。本当に、書くことが救いでした。モニターの画面を離れると、寂しくて仕方なかった。

 ただ、俺はやれるんだって思いました。これだけ寂しくて苦しくて辛くても、やれるんだっていう。俺は負けなかったと思いました。プライベートとしてはいろいろあったけど、ものを書く人間としては負けてなかった、表現者か詩人か物語作家かわからないけど、そういう人間としては負けずに、これだけ技を受けたけど立っていられたぞ、という気持ち。

ポエトリースラムは人間性を肯定するゲーム

 試練の時期を越え、さらに大きな舞台に立ったのが2015年。ベルギー・モンスで開催された国際ポエトリースラムに出場した。

 あの大会は三人一組の団体戦だから、各国のいろんなタイプのトップスラマーを見た、それが大きかった。そのうち多くの人が翌年のW杯に出ていましたし、非常に良い経験をしました。

 モンスで学んだ最たることは「人の真似はしなくて良い」ですね。自分のやってることを突き詰めるしかないということ。それと、ポエトリースラムジャパンに出るうえでもちょっとプラスだった。例えば今年のPSJに出ていた人は、パリに行くことが目標なんですよ。パリに行くぞっていうことを日本の観客に見せてた。でも僕は、パリのお客さんの前でやることを予選の時からずっと意識していました。そこが他の人と違ったと思います。

 そしてそのとおり、W杯に出場してパリの観客をも唸らせることになった。そんな大島作品の根底にあるものとはなんだろう。

 ほかの人にも言われたことあるんですけど、立脚点が希望じゃなくて絶望だと思うんですよ。「いつか良くなる」じゃない、「どうにもなんないけど、どうしたらいい」とか「どうにもなんない時に人間がどうしていくか」とか、そういうところが立脚点にある。なんでしょうね。「どうにもならないぞ」っていうのは絶望であると同時に救いでもあって、どうにもなんないというのが判るとちょっと楽になるじゃないですか。そうすると物事をちょっとフラットに見られると思うんですよ。

 「明日はもっといい日になる」っていうのを捨てるのはやっぱ勇気がいるし、すごく怖いと思うし、僕も若い頃は「頑張っていればいつか全部良くなる」って思ってたけど。年とともにだんだんそうじゃないことが増えてくると思うんです。その時、希望にすがるより、絶望した方が人間って楽になれるんじゃないか。希望ってすっごく人を不幸にしますよね。絶対うまくいかない恋とか、絶対勝てないとか、絶対治らないとか、絶対ダメなことっていっぱいあるじゃないですか。でも自分自身と絶対ダメなこととの間でどう付き合っていくかみたいなことだと思うんです。

 作品にはシュールな表現がたくさん出てくるけれど、伝えようとしていることは明確、なのかもしれない。

 『うなぎ』にしろ『神様の人生』にしろ、もしシュールな要素を一切はずしてみると、物語の類型的にすごいオーソドックスなんですよ。本が好きだったから、そういう物語の類型みたいなのが自分の体に入ってるんでしょうね。

 あとはやっぱり、こうだったら面白いなあという、ほぼ悪意に近いいたずら心で、うん。たとえば子どもの頃、先生がチョークを出そうとして箱を開けたら蛇が出てきて「きゃあ」ってなったら面白い、それの延長ですよね。あるいは先生が黒板に書いてるけど、実はチョークじゃなくてトカゲを持ってる、って生徒が気づいたらうわーってなるじゃないですか。そういう、全部思いつきなんですけどね。「うなぎの木がある」みたいなことが頭に浮かんじゃう。

 では、大島さんが考える「ポエトリースラムを聴く魅力」とはなんだろう? 

 ひとことで言えば機械にはできないことをやってる、ということです。ポエトリースラムはお客様がジャッジするわけですよね。それがすでに不公平ですよね。人間の感覚なんて、朝何食ったかで変わるんですよ。そんないい加減なものをみんなで受け入れるっていうこと、それがまさに人間性の肯定なんですよ。人間はいい加減で間違うもの、あるいは、人間の結論はその日によって違うものだということ。人間性の肯定であると同時に、恐ろしく怖いことですよね。勇気がなかったらできないですよね。そんないい加減なところに命をかけに行くってバカでしょ!? だって、どうしたら勝てるかわからないんですよ。

 W杯では主催者の人がお客さんに向かって”Best poet never win”っていうわけですよ。とんでもない話ですよね。いちばんいい詩人が勝たない、って言うんですよ。W杯で、ですよ。でもそれが、ポエトリースラムっていうシステムなんだっていうこと。詩の言葉、詩のパフォーマンスっていうことを媒介にした、人間性の肯定なんです。自己肯定感とか言うけど、自己なんて肯定してもしょうがないじゃないですか。

 そんなことより、人間ていうものそのもののいろんなことを肯定するのって凄いことだと思うんです。人間が揺れること、人間が間違うこと、頑張ること、覚悟すること、人間の勇気、人間の臆病さ、全部肯定してるのがポエトリースラムですよ。それがリアルタイムで見ている人の前に現れて、ステージに上がっている人間が勇敢だったり臆病だったり、覚悟決めてたり決めてなかったり、慌てたり、いろんなことが起きる。ジャッジもジャッジで、揺れたり、間違えたり、後悔したり、決断したりするわけですよ。それをみんなで楽しむ。そうであることを肯定するっていうことです。

 これは絶対ほかの競技やスポーツじゃできない。ほかの競技っていうのは、究極的にはジャッジは機械に変えうるし、機械のほうが正確なんですよ。プロ野球でも大相撲でもビデオ判定。F1が300キロで走ってきてどっちが先にゴールに入ったかって、人間には見えないですよ。でもポエトリースラムは、人間には見えないことがあることを前提にした、人間のお祭りなんです。

 もちろんヨーロッパでも日本でも、なんだかんだ言ってスキルやちゃんとした要素を持っている人じゃなきゃ、なかなか勝てないと思うんです。ただ、そこでいろんなドラマが起きるのがポエトリースラム。そのドラマを人間として共有できる、それが魅力です。これは、W杯に自分が出てから毎日毎日考え続けて、至った結論ですね。

 それでは、これから出場しようと考えている人にはどんな言葉があるだろう。

 やってみればいいじゃん、ですよね。素晴らしいと思うかもしんないし、思わないないかもしんない。ある人は負けたあとやっぱりラップに帰ります、詩誌に帰ります、舞台に帰ります、音楽に帰りますとかって帰るかもしれないし、ある人はそのまま居つくかもしれない。でもこれ、人間性の肯定のゲームですから。

 俺、最近考え方がちょっと変わった部分もあって、終わったあと「俺は負けてない」って女々しく言い散らすのもひとつの人間性だと思うんです。それもあり。俺は絶対やんないけど、そういうみっともない人間のあり方をさらしちゃうのも、ポエトリースラムというシステムから言えばありなんですよ。来てもいいし来なくてもいい。出てもいいし入ってもいい。何かが見えたり見えなかったりする。ただ、ある程度ちゃんとやんないと何かは見えないと思いますよ。

 これは残酷な言い方になるけど、一回戦より準決勝まで行った方がものが見えるし、準決勝より決勝、W杯に行った方が見えるんですよ。それは、今年如実に感じました。上に行けば行くほどいろんなものが見える。だから、それが見たかったら頑張ろうねっていうことですね。それがその人にとって本当に苦しいか楽しいか、俺にはわからないですけど。

【プロフィール】大島健夫(おおしま たけお)
詩人。1974年千葉県生まれ。2014年、24時間朗読ワンマンライヴ完遂。ポエトリースラム2016日本代表。ベルギー、イスラエルなどの詩祭やポエトリースラムにも出場。

(ポエトリースラムジャパン 公式サイトより転載)

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