詩人まど・みちおさんの「かまぼこ」レポを読む
実家に帰ったら、朝ごはんにかまぼこが出てきた。しかも、山口のものだと聞いて、小躍りした。
なにを隠そう、わたしは、かまぼこ好きだ。
なかでも、山口の宇部かまぼこには目がない。
くちっとした噛みごたえに、上品な白身魚のうまみが凝縮している。なかでも「嶺雪」は、その名の通り白く輝き、もはや神々しい。うやうやしい気持ちで、大事にいただく。「新川」はふっくらと丸くてギザギザでかわいい。
山口のかまぼこを食べると、ちょっとほかのかまぼこを食べられなくなるよね、というのがうちの家族の意見。
そんな山口出身の詩人、まど・みちおも、かまぼこが好きだったらしく、おもしろいことを言っているので読んでみたい。『まど・みちお詩集』のなかのエッセイにその話が出てくる。ぜひ、ご一緒に、まど先生ワールドへ。
詩人と蒲鉾
「蒲鉾なんぞは魚も何もない片田舎で魚の代わりに食べるんだ」などという人もあるが、私は蒲鉾が好きだ。」
うんうん(そんなことを言う人もいるのね)。
プリンですか?まど先生、ちょっとそれはよくわかりません。
「魚がいる」。詩人の食レポ、独特…。
さらに「最も魚らしい部分だけを示されでもしたようにギクリとする」、「私は私の心臓の中でひらりと共鳴的に跳ねた魚をさえ意識する」と、かまぼこのスライスから「魚」の存在を明確にとらえるまど先生。このへんが、常人とちがうところだなぁと思いながら読み進める。
ここから、塩焼きのように「魚そのものの姿」で供される料理と、かまぼこの比較がはじまる。目や鱗を、「これは魚だ」という陳腐な説明だというまどさん。うーん、そんなこと考えたことなかったけど、まぁそうなのかな。みなさん、ついてきてますか?
それに比べ、蒲鉾は「これは魚だ」という煩瑣な(わずらわしい)説明が一切ないのに、口にしたときに厳然に魚だ、と先生は続ける。
「つまり蒲鉾の中の魚は生きている。私の想像と共に自由に深海を駈けずり廻る。」
かまぼこを食べながら、生きている魚を感じるまど先生、すごい。
そして、こう続く。
「私の書いている貧しい詩が、この蒲鉾のようであってくれればいい」
!!!
おお、これはかまぼこ論ではなくて詩論だったのですか。
かまぼこのような詩を
ひえぇと思いつつも、「詩=煩わしい・陳腐な説明無しに、もっと明確に、もっと純粋になにかを表現するもの」とすれば、なんとなく合点もいく気がするが、みなさんはどうだろうか?
たとえば、桃のジェラートなんかを食べた芸能人の方が、「桃以上に、桃ですね」とコメントしたりするのをテレビで見ることがある。雑味や余計なものがそぎおとされて凝縮されたジェラートを通じて、理想上の桃(イデアとしての桃)にたどり着けた、みたいな感じだと思う。
(ことばの)削ぎ落としと凝縮。詩の営みそのもの。
詩がどのようなものか、考えるのにちょっとおもしろい文章なので紹介した。ちなみに上記のかまぼこ論に続いて、「ちくわ」は「蒲鉾より若々しい」と言っているけど、そこらへんはもっとよくわかりません。
1936年、まど青年27歳の頃の文章でした。
そのお気持ちだけでもほんとうに飛び上がりたいほどうれしいです!サポートいただけましたら、食材費や詩を旅するプロジェクトに使わせていただきたいと思います。どんな詩を読みたいかお知らせいただければ詩をセレクトします☺️