法政大学田中優子総長とわたし

法政大学社会学部藤代ゼミからは3人が卒業しました。卒業おめでとうございます。ゼミの先輩として後輩の3年生、2年生を導き、そして代講の私を助けてくれたことに深く感謝します。


たいへん薄いつながりではありますが、今年度総長を退任される田中優子先生は、私の「恩師」のひとりです。実は私は、35年前に法政大学法学部に入学した年、田中助教授の「文学」を受講していました。その頃の田中先生は細身のジーンズをはきこなし、カッコよく小さな教室に現れました。先生は最初の本『江戸の想像力』の執筆の最中で、当時顧みられていなかった、キセルにつけるアクセサリーである金唐革(きんからかわ)製の根付を研究することが、その時代を生きた人々の息吹を知ることにつながり、それが江戸の歴史をいかに生き生きとさせるのかを、目を輝かせて語ってくれたのです。今でこそおなじみのものの見方ですが、当時、トリビアルなモノから歴史を語るという手法は歴史学の中では傍流の傍流で、それ自体勇気が要ったことと思います。


ならば、と私は、夏休みのレポートに「水子供養の研究」を選びました。育った栃木の野にある石仏と、東京の寺に並んでいる水子供養。同じ地蔵なのに明らかに異質だ。それはなぜなのか、という疑問から、江戸期からの民間信仰の流れと全く異なった優生保護法改正がらみの政治的思惑と堕胎への罪悪感を人々に植え付ける目的から、現代の水子供養が生まれたことを突き止めて400字詰め原稿用紙32枚に書き殴って提出しました。出しっぱなしなので手元にありませんが、たいへん荒い出来だったと思います。


田中先生は、次の授業でそのレポートをたいへん褒めてくださり、みんなの前で全文を読み上げてくれたのだそうです。そうです、というのは、私はそのときサボって教室にいなかったから(笑)。実に残念、まったく残念なことですね(笑)。そのとき私は、すでに物書きあるいは編集の道に進みたいと考えていましたけれど、先生が背中を押してくれたことが、私がこうして怠けながら、回り道しながら生きる原動力になっていたことは間違いありません。


今回の告辞で田中先生は、自らの法政大学初、日本でもまだ珍しい存在である女性総長という立場と、バス停で寝ていたホームレス女性が石で殴り殺された事件を対にされ、ご自身にも不安定な研究の道を迷う気持ちがあったこと、しかし江戸研究の楽しさがその不安を上回っていたこと、そして、これらの気持ちは誰でも持っている、このような立場の互換性に対する想像力を持つべきだと語られています。
田中先生は自身の行く末に不安を感じながらも、私の背中を押してくださっていた。それが教育者なのだ、と告辞を読んで感じ入りました。そして35年後の今年度、同じ大学の非常勤講師となった私が藤代先生の代講という立場になってゼミを担当したのも因縁かもしれません。しかし、果たして田中先生が言われる「自分で自分の役割を見据えて、自分で決めることが、これからの社会を変えていく」という教えを伝えられたかどうか。少々心もとないものがあります。


ただ、幸運にも2005年からずっと大学生に関わる機会を得ている私は、人は卒業後もどんどん成長を続けることを知っています。ごく一部ですが、卒業してから顔を合わせる彼らから学ぶこともたくさんあり、また成長し続けていく彼らを見るのは、本当に嬉しいことです。


私の学部での役割はここで終わりますが、いつでもどこでも、「学びたいと思ったらそこが大学」という言葉を胸に、少しスピードを上げて生きていきたいと思います。私は少し怠けすぎです。


またお会いしましょう。ありがとうございました。

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