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ならダチョウになりたかった

私は、なんでもすぐ忘れる。
良いことも悪いことも、覚えておかなければならないこともそうでもないことも、なんでも忘れる。

例えば、何かのきっかけで死にたいと思うことがあって、死にたいと思いながらも、小説を数行読むとき。
ごはんをひと口食べるとき。
数学の問題を一問解くとき。
ふと、近所の家の庭の梅が、花開いたことに気づくとき。
もう、そのときには忘れている。

この忘却を損とするか得とするかは、場合によるだろう。
死にたい、なんて考えが浮かんだとしてもすぐに消えるならば、それはよいことかもしれない。
でも、死にたいと思うまでのきっかけも忘れてしまうのだ。自分の失敗だか相手の悪意だか、死にたいと考えさせる契機がある、それだって忘れてしまうのだ。
死にたくてもどうせ死なないんだということを前提としたとき、大切なのは「死にたさ」ではなくそこへ至らしめた出来事だと思う。
自分に何か改善すべき点があったのなら改善しなければならない。相手に伝えることがあるなら伝えなければならない。それを忘れてしまったら、私はいつまで経っても死にたい死にたいと呟く愚かな人間のまんまじゃないか。


ところで、ダチョウは、3秒歩くとついさっき起きたことをすぐ忘れてしまうらしい。目玉より脳みそが小さくて、記憶力が著しく悪いのだとか。
それを知ったとき、もう覚えていないけれど、私はたぶん笑っていたと思う。自分もダチョウとさして変わらないということを、すっかり忘れているはずだから。目玉の何倍も大きな脳みそを持ってしても。

今、再びダチョウのことを思い出して、私は微塵も笑うことができない。私には笑う資格がないだろう。

けれども、ひとつ言わせてもらうなら、どうせダチョウと一緒なら私はダチョウになりたかった。なんでもかんでもすぐ忘れちゃう友だちのダチョウと、全く実のない会話をしたかった。
それはちっとも寂しい人生ではない。わたしたちは「憶えている」ということを知らないのだから。わたしたちは、この世に生まれてきた喜びを体いっぱいに感じながら、アフリカの大地を細長い足で駆けてゆくのだ。



ああ、この気持ち、鬱々としたこの胸の内も、いま文章を書き終えれば忘れてしまうだろう。
明日、もしダチョウの話を聞いたら、あははは、と笑うだろう。

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