見出し画像

「”思う壺”論」を連射する鈴木エイト

『「山上徹也」とは何者だったのか』(講談社+α新書)を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。終盤で太字にしたのはnoteで加筆した部分です。

 のっけから表紙のことにつっこむのも何だが『「山上徹也」とは何だったのか』と問う割には山上を表紙にすることが出来ず、タイトルの人物と著者の姿が並立してしまうのが苦しいところだ。
 本書は『自民党の統一教会汚染3』なのか、それとも『山上徹也からの伝言2』なのかは不明だが、タイトルからすれば間違いなく後者なのだろう。といっても前著は小学館で本書は講談社で刊行されているのだが。

 本書で一番素直に評価できるところは、「犯罪者の思惑通りになった」(はじめにのP6)という、いわゆる「”思う壺”論」を序文で容赦なく酷評しているところだ。前著のメインはゲスト等との対談だったが、本著ではもう対談相手はいない。これまでは対談相手に忖度して抑えてきた本心を吐露し、これでもかというほど「”思う壺”論」者を連射する鈴木エイトを読むにつれ、前著でどれだけ封印させられていたことが見て取れる。それは、前著で対談相手の1人だった太田光が「思う壺論」者そのものだからであるが、何より山上を「社会を恨んでいるので大量殺人を犯す可能性がある」と述べた太田のことを指しているとしか思えないのではないか!
 実際に太田は、『サンデージャポン』で「統一教会問題を取り上げるのは山上容疑者の思う壺」と豪語している。
 太田が本当に典型的な「”思う壺”論」者であるのかは置いといて。

 確かに調査・報道してきたエイトを苦々しく思う”「統一教会問題」は「なかったことにしたい」”勢力からすれば、岸田文雄に向けた爆発物事件など好都合この上ない話だ。
 案の定、
「私はテロを起こした時点でその人間の主張や背景を一顧だにしない」
「そこから導き出される社会的アプローチなどない」(序章P 18)と再発防止の訴えすら否定する細野豪志などそれに際たるものである。
 岸田に爆発物を仕掛けた容疑者の犯行に対しては一理もないことは当たり前だが、だからといって供託金廃止という意見に一理もないということにはならない。

 といっても具体的に「”思う壺”論」者の実名を出したのは細野くらいで、太田はもちろんのこと、思い当たる「”思う壺”論」者の頭文字すら出さないのだ。政治家より同業者の実名を出す方がまずいということか?尤もこのような忖度は、著者というより出版社の都合で行われているのだろうとは思うが。


 筆者もエイトに影響を受けている部分もあるが、レビューした記述と同じような箇所もある。
 山上の動機は、正義の下ではなく、あくまで私怨であるということは同意見である。山上は、「政治信条に対する恨みはない」と陳述しているように、個人的な怨恨であることも認めているにもかかわらず、昭和初期のテロに一足飛びするような見解は未だに根強く、撤回される兆しは見えない。そこにどうしても違和感を覚える。そして、5.15事件や2.26事件に結びつけることには慎重ではあるものの、山上の個人的な怨恨は駄目で、”それなりの思想”なら駄目ではないというような主張をする知識人の方がよほど危険思想なのではないか?


 本書の本題の一つとしてどうしても無視できないのはやはり山上の動機だ。
エイトが認識する山上の動機への見立てもほぼ同意できる。
特に第1章「分水嶺となった『安倍晋三のビデオメッセージ』」のP42で、「あのビデオメッセージ(2021年9月12日のビデオメッセージ)に私は驚愕し、山上徹也は”絶望”した。(中略)おそらく私と山上徹也は、同じポイントに衝撃を受け、驚愕あるいは絶望したと思っている」の記述には、”同じポイント”が強調されている。”同じポイント”とは、「安倍晋三が、もはや統一教会との関係を隠すつもりがなくなったということ」で、さらに言うと、「恐らく、『公開したところでその影響は大したことはない。第二次安倍政権後の各メディアの動きを見ても、きっと大手メディアは報じないだろう。(中略)政治生命には何の影響もないはずだ』と高を括ったのだろう。その点にこそ、私と山上は影響を受けたのだ」とエイトは述懐している。「安倍晋三という政治家のメディア分析は、的確であり正鵠を得ていた。だがその「開き直り」こそ、山上徹也を”絶望”させ、トリガーを引かせることになった」と。

 安倍からすれば、統一教会への思いなど一切なく、第一次政権が失敗したことで、教会にも手を伸ばさざるを得なかっただけの話だ。自分だけなら運動員や票の加増がなくても勝てるが、一世議員は自力では勝てないので、真逆のイデオロギーだったのに、あくまでドライに票の差配をしてあげた。ただ宗教2世、3世が困窮してゆくことを想像だにしなかっただけの話である。

 そしてSNSでは冷笑的なポーズをとっていた山上は、安倍のことはある程度評価していて、統一教会とも距離を置いていたと信じたかったのだろうと思う。だからあのビデオメッセージは、山上からすれば、裏切られたショックだったのかもしれない。それが安倍へのとどめになってしまうとはなんとも言えない話だ。
 信仰の自由は大前提だが、行政が選挙のために特定の宗教に便宜を図るのは大問題だろう。今回の選挙で統一教会から支援を受けていた候補者も氷山の一角であろうし、さらに言えば宗教法人格を取り消すべき団体は統一教会だけではないはずだ。議員の資金源や集票マシーンのためなら、多少の犠牲はやむを得ないというのなら、為政者が殺されることも逆に織り込み済みということになるのではないか?事件を「政治的テロリズム」として片付けることによって見えなくなるものがあると感じる。

 繰り返すように山上の動機としてビデオメッセージがとどめになったということは、筆者も同意見なのだが、同時にロスジェネ世代としての要因があるかないかについては必ずしも同意見ではない。

 エイトは、第8章P147で「安倍晋三を狙ったことについては、『ロスジェネ世代ゆえの不満を時の権力者にぶつけた』という説が流布されていることにも違和感がある」とその結びつきを否定する。確かに直接的な動機ではないし、安易にカテゴライズすることだけは避けたいと思うが、どうしても就職氷河期のロスジェネを思い浮かべてしまうことは否定できない。多額の献金で生活が一変するようなことがなかったら、就職氷河期でなければ、ひょっとして順風満帆な生活を送っているのではないかと他人事ながら考えてしまう。それに逆説的だが、犯行への計画性(試し撃ちのための関連施設の下見等)、連続で2発も撃ててしまうような自作の銃を考えると、言いたくはないが、優秀なのである。ロスジェネ世代論に首を傾げるエイトも第9章P155で「決して褒めているわけではないが、彼の冷静さと精神力に驚愕の念を抱かざるを得ない」ことは認めている。
 そう言えば、決して比較するものではないが、相模原障害者施設殺傷事件の植松聖死刑囚(ロスジェネ世代ではないが)も「施設職員の仕事を大変と思ったことはない」と発言していたし、秋葉原通り魔事件の加藤智大元死刑囚もかたくなに自身の過去の待遇を訴えることを避ける傾向があった。「誰がメディアの期待に応えてやるか」という気持ちが透けて見え、弱者だということを認めたくないところは無自覚ではあるが、両名とも世代は違うものの、ロスジェネ的な共通認識を持ち合わせているのではないかとも思う。
山上容疑者もその点に関しては同じようなクチかなと勝手に想像してしまう。

 エイトは同P147で山上の動機には情緒的な部分がある反面、合理的な計画性も持ち合わせていることも指摘している。
「もっと明確に『統一教会潰し』を画策して、『劇場型の犯行』として綿密に計算し尽くし、(中略)拡大自殺や集団殺人に入ることなく最も効果的かつ責任を問われる人物にターゲットを絞った、という可能性も考えられる」と考察していたが、この点も「社会を恨んでいるので大量殺人を犯す可能性がある」という太田の山上論への反論とも見受けられる。

 フリーライター宛に綴った手紙からわかるように、呑み込まれた一個人が巨大な宗教団体に容易に辿り着けないことを山上容疑者は知っている。「安倍(元首相)の死がもたらす政治的意味、結果、最早それを考える余裕はありません」と記しているように、また供述内容からしても冷静さもあり少なくとも正義の名の下で行使されているようには見えないし、個人的な怨恨だということも認めている。
 
 事件から1年経って刊行された本書の最大のテーマといえば何と言っても山上の裁判、つまり裁判員裁判である。
 エイトは、第1章P 42「その点(ビデオメッセージ)にこそ、私と山上は影響を受けたのだ」だけでなく、第9章P162で「山上徹也と私は近年、『安倍晋三』という同じ対象を追っていた」と述べているように同志とまで思っているのだ、しかも山上が安倍と統一教会との関係を追っていくことになったのは、自身の記事であることは明白なので、「記事を書いた側として、責任を感じる」とも吐露している。 
 エイトは山上の減刑を求める署名活動自体には一貫して冷ややかな態度を取っているが、額面通り受け取っていいのか迷う部分がある。

 第五章や第10章でエイトが一例にしたように、「山上徹也容疑者の減刑を求める署名」の発起人である女性が「山上容疑者が逮捕後すぐに死刑にされてしまうと思って署名を始めた」(第10章P175)と語っている。エイトは署名活動の代表になっている宗教2世を「日本のような法治国家で、すぐ死刑になるということはあり得ないし、失礼ながら、基本的な法的知識が足りないのでは」(第五章P 91)とかなり正直に語っている。しかしその割には第三章P 67では山上の伯父からも「そんなバカな」と一蹴されたにもかかわらず、一部の法律家から死刑求刑の可能性について指摘されたことには否定しきれていないのだ。しかも同じ序文のP7で、
「事件の加害者・犯罪者として、長期の懲役か無期懲役、あるいは死刑に処されるかもしれない山上徹也が、統一教会の被害者であることも、””悲劇”の一端をなすと言えるだろう」
とも述べている。タテマエでは「日本は法的国家だ」と言いながら、自分自身も心のどこかでは司法制度自体を信じきれていないところが見て取れる。言い方は悪いが上梓する際に推敲する時間がなかったのではないかとすら思えるのだ。
それに、当欄でのレビュアーの方からの「同じ内容を何度も何度も何度も繰り返して書いているし、繰り返していることを忘れている書き方の部分もある」というご指摘にも激しく同意する。

 あくまで個人的な見解だが、被告に肩入れして刑を軽くするのは無論許されないが、逆に被害者の影響力の大きさを考慮して刑を重くするのもおかしいと思う。

 第10章P175で、「様々な動きがある今回の事件だが、公判には私も何らかのかたちで関わっていくことになるだろう」と自ら予告するようにエイトがこれから裁判員制度にどう関わっていくのか、不謹慎ではあるが楽しみでもある。

 以下は追記である。

 筆者が前著をレビューしたときに、山上の投稿への言及や、ジョーカーとの類似性が足りないなどと注文を付けたのだが、本書では再度言及されていたので、かなりクリアしてくれたのかと期待していたのだが、やはり不足がある。
 山上の投稿欄は増えたが必要不可欠の

「ネトウヨとお前らが嘲る中にオレがいる事を後悔するといい」もなく、ジョーカーの件は、むしろ『山上徹也と日本の「失われた30年」』の著者の1人で山上の年齢に近いロスジェネ世代の五野井郁夫の方がジョーカーの類似性について言及を望んでいて、エイトは『山上徹也と日本の「失われた30年」』を取り上げ興味深いとは述べてはいるが、ロスジェネ世代論には引いているし、ジョーカーとの類似性についてもさほど関心があるわけではないのだ。

いずれも筆者が課題に挙げた点なのだが、

第五章での映画『REVOLUTION +1』への言及についても一つ気になることがあった。それは、P 95で主人公の隣人の女性のモデルは監督の足立正生の娘だろうとエイトは断言しているが、筆者は重信房子の娘メイだと思っていた。それだけの話なのだが。 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?