ポカQ

雑文書きです

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最近の記事

「妾でもいい」発言は平安女子の身近な悩みだが、大河ドラマとして本当に画期的なのは初の「側室」ヒロインが誕生したことである。

 「妾でもいい あの人以外の妻にはなれない」  大河ドラマ『光る君へ』の第12話「思いの果て」での主人公まひろ(紫式部:吉高由里子)が放つ衝撃的な台詞はトレンド入りするくらいの反響だった。 「妾でもいい」という強いインパクトのある台詞は一見不道徳のようにも聞こえてしまいそうなのだが、現在のような愛人色が強いというわけではない。むしろ平安女子の身近な悩みを訴えかけているといってもいいだろう。作中での読み方でも「めかけ」ではなく「しょう」という読み方だ。この時代の貴族の世界ではや

    • 「キックバック」の廃止という発言こそ俄かに信じがたい

       裏金事件の幕引きは、処分をめぐって水面下で行われたようで、案の定「手打ち」という虚しい結末を迎えた。  そもそも事件の幕引きがあそこまで収拾がつかなくなったのは、安倍晋三元首相の「遺言」である「キックバック」の廃止が、安倍派幹部を超えて自民党の至上命題になってしまったことである。タテマエ上では、政治資金パーティー券の販売ノルマを超えた収入が所属議員側にキックバックされていたことを、安倍氏がやめさせた、ということになっているようだが、一体誰が信じているのか?  大体生前あ

      • マスクコウモリ

         新型コロナウイルス感染症の位置付けが「2類相当」から「5類」に移行して、はや10ヶ月も経ったが、筆者は未だ「マスクコウモリ」である。日常は「あごマスク」として棲息する「マスクコウモリ」は、周囲を見て瞬時につけ外しをしてしまう哀しい習性の持ち主だが、決して少なくはない種族だ。ちなみに「マスクコウモリ」とは筆者の造語だ。 「マスクコウモリ」は、交通機関や商業施設では外すことは滅多にない。町中では外しているが、自分の前を通る人が継続派なら着用する。外していても咳やくしゃみが出そう

        • なぜ失言大王よりも当事者になった上川陽子の対応に波紋が広がるのか?

           なぜ失言大王よりも当事者になった上川陽子外相の対応に波紋が広がるのか?  麻生太郎副総裁のルッキング発言から端を発し、当人の上川氏の対応を巡って、「大人の対応」、「抗議すべき」と意見が割れてしまうこと自体に相当根深いものがあると思う。 「なぜ抗議をしないのか?」、「毅然とした対応をして欲しかった」 確かに上川氏のようにかわしたり受け流したりすることがベストな選択ではないことぐらいは分かるが、非難が当人に向かってしまうのには釈然としないものがある。  「自分が我慢したことで

        「妾でもいい」発言は平安女子の身近な悩みだが、大河ドラマとして本当に画期的なのは初の「側室」ヒロインが誕生したことである。

          2年半以内に出してくれてありがとう、でも

           『BLACK LAGOON』13巻を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。加筆修正はありません。  上記のようなタイトルを付けたのは理由がある。実は、12巻へのレビューを書いたときに、「せめて2年半内に13巻を出してもらいたいものだ」と思わず口走ってしまったからだ。実際にその期待に応え本巻は2年4ヶ月で刊行してくれたので、それにつられてタイトルも「2年半内に出してくれてありがとう」にしておいた。出来ればそこで締めたかったのだが、「で

          2年半以内に出してくれてありがとう、でも

          たけし映画の『首』は『戦メリ』の首を解体出来たのか?

           お蔵入りになると思われていた映画『首』を観た。  確かにたけしによる大島渚(黒澤明も)へのリスペクトは感じたが、その裏には大島との距離も微かながら感じてしまう。”衆道”を題材の一つにしていることは『戦場のメリークリスマス』(83)や『御法度』(99)と同様だが、叛旗を翻しているようにも受け取れたからだ。前2作でのたけしは出演者の立場ながら、”衆道”というものから徹底して背を向けている。  それはたけしが望んでいたことでもあるが、その決定権はたけしにはなく、大島にあるので、

          たけし映画の『首』は『戦メリ』の首を解体出来たのか?

          味方忍者と敵方忍者の扱いの違いとは?

           関ヶ原の前哨戦で4万の大軍をわずか2千程で10日間以上持ち堪えていたという凄絶な伏見城の戦い、その直前での家康と忠臣である鳥居元忠との別れは繰り返し語り継がれている世にいう「伏見城の別れ」である。  TBSの『関ヶ原』(1981)では、森繁久弥と芦田伸介が、NHK大河ドラマ『葵 徳川三代』(2000)では津川雅彦と笹野高史が演じているが、これを超えるのは至難の技だ。  そこで思い付いたのだろう。『どうする家康』では、武田のくのいちだったはずの千代(古川琴音)を急遽元忠(音尾

          味方忍者と敵方忍者の扱いの違いとは?

          市川沙央と植松聖

           『「ハンチバック』(文春e−book)を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。数箇所を太字にしたのはnoteで加筆した部分です。  「紙の本を憎んでいた」発言は、既に本作からひとり歩きしてしまった格好になっているが、正直なところ市川沙央に先を越された、借りを作ってしまったという気持ちがある。  書き手側の方はまるではじめて聞いたように、あたかも無知で傲慢な書き手である読書家の心にグサリと刺さった、耳が痛い、胸がしくしくと痛んだ、鋭く

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          40年前の懺悔

           これまで報じられなかったジャニーズ性加害問題が会見以降一斉に雪崩れを打ったように毎日報じられるものだから、改めて人権とは何かというあまりにも難解なテーマについて考えざるを得なくなってしまった。一般視聴者にとっても決して楽な総括ではない。  つくづく日本は、恥ずかしいことにどんなに理不尽なことでも外圧がないと覆すことはできない国である。それと同様、今に始まった事ではないメディアや企業の得意な手のひら返しについての論考は、他の論者に任せるが、振り返ってみると自分はどうなのだろ

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          「”思う壺”論」を連射する鈴木エイト

          『「山上徹也」とは何者だったのか』(講談社+α新書)を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。終盤で太字にしたのはnoteで加筆した部分です。  のっけから表紙のことにつっこむのも何だが『「山上徹也」とは何だったのか』と問う割には山上を表紙にすることが出来ず、タイトルの人物と著者の姿が並立してしまうのが苦しいところだ。  本書は『自民党の統一教会汚染3』なのか、それとも『山上徹也からの伝言2』なのかは不明だが、タイトルからすれば間違いな

          「”思う壺”論」を連射する鈴木エイト

          安彦批判はいかがなものか

          『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア 友の会【復刻版】』を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。加筆修正はありません。  復刻したことで本書が予言書であることが改めてよく分かる。約30年前に刊行されたこの同人誌は、今からすれば、前史エヴァであり、前史ウテナであり、前史攻殻機動隊とも言えるのだ。なぜなら本書に関わった者の代表作による産声が、まもなく響く予定だったからである(オネアミスだけは既に産まれているが)。  「映画『逆襲のシャア』の

          安彦批判はいかがなものか

          エイトは『サンデージャポン』でのレギュラーの座が惜しいとまでは思っていないだろう

          『自民党の統一教会汚染2 山上徹也からの伝言』を上記と同じタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。終盤で太字にしたのはnoteで加筆した部分です。  『自民党の統一教会汚染』第2弾の購入を決めたのは、比較的読み応えがあった『週刊ポスト』での対談が収録されていたからだ。  特に太田光との対談は期待通りだった反面、鈴木エイトに若干ではあるが太田への忖度を感じないわけでもなかった(まさか生活のために『サンデージャポン』でのレギュラーの座が惜しいと思って

          エイトは『サンデージャポン』でのレギュラーの座が惜しいとまでは思っていないだろう

          鈴木邦男が遺したもの

           稀有な人だったとしか言いようがない。  自らを愛国者ともリベラリストとも決して安易に名乗らない人であったが、どちらもある意味否定しづらい美名だ。だから羞恥心があり過ぎる人は自称せずに体現してしまう、鈴木邦男のことだ。  「不自由な自主憲法より、自由な押し付け憲法の方がまし」を座右の銘とし相手の思想や政治的立場がたとえどんなにか自分と違っていても、「君の意見には反対だがそれを言う権利は命にかえても守る」というヴォルテールを地でいく数少ない1人であろう。人権意識や言論の自由を

          鈴木邦男が遺したもの

          7・8事件で追放されるわたしたち

           『7・8元首相銃撃事件何が終わり、何が始まったのか?』(河出書房新社)を「テロの定義」というタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。中盤で太字にしたのはnoteで加筆した部分です。 テロの定義  元首相銃撃事件がテロか否か未だに意見が分かれるが、そもそもテロの定義すら違う者同士が争っている様相では何も見えてくるわけもない。テロという言葉がいかに曖昧で漠然たるものかをかろうじて気付かさせてくれるのはおそらく本書なのである。  本件をテロだと捉

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          自分の味方は自分です

           古市憲寿の『正義の味方が苦手です』(新潮新書)を「芸風の失速」というタイトルでAmazonにレビューを書きました。以下が本文になります。書き出しで太字にしたのはnoteで加筆した部分です。 芸風の失速  「一体どっちの味方なんだ!」と幾度も言われたのだろう。 古市憲寿のような「誰の味方でもない」、というより「自分が自分の味方」である人間が論じると決まってこういうことになる。  論壇という言論の世界の辛いところは左右どちらかの陣営に頼らざるを得ないところだ。内容が勧善懲悪

          自分の味方は自分です

          レジェバタと過去作への消えない思い

           『レジェンド&バタフライ』のことは、正直に言うとすぐに消化してもいいような作品だと思うのだが、その反面どうしても消化できないところがある。どこか心に突き刺さるものがあるのだ。まずその一つは「新たなる視点で描く歴史大作」と大々的に銘打ったことである。確かに本作では、これまでにない新しい信長像を描いていることは否定しないが、信長と濃姫の夫婦関係(特に濃姫)に関しては到底真新しいとは思えないのだ。制作発表が行われある程度の概要が知れ渡ったとき、司馬遼太郎の『国盗り物語』さらには山

          レジェバタと過去作への消えない思い