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内ゲバの予行演習

 節目のある15話でめでたく退場に遭いなった上総介広常(佐藤浩市)の最期は誰もが2004年『新選組!』の芹沢鴨を思い浮かぶように創られていることは間違いないが、鴨以上に相応しい、誰あろうもう一人の人物が広常の中に宿っていた。今から36年前に1986年NHK大型時代劇『武蔵坊弁慶』で木曾義仲を演じた若き日の佐藤浩市である。そのときも頼ってきた行家を見捨てることを良しとせず吉高(市川染五郎)を人質として頼朝に差し出すのだが、『鎌倉殿の13人』では礼節を保っている青木崇高版の義仲よりは随分とやんちゃだった。おそらく三谷幸喜も『弁慶』を観ていたに違いない。義仲のことは次回にまわして広常の最期の話に戻ろう。

 広常が謀反人として誅殺されたことには史実を曲げてはいないが、随分と自由に創作したものだとつくづく思う。広常の殺害現場を生々しく記述されているのは『吾妻鏡』ではなく『愚管抄』であったりするのでちょっとややこしい。年表は寿永2年(1183)12月22日、依頼人は頼朝で、実行犯は梶原景時。「景時が広常と双六をしていたが、景時が盤の上をさりげなく超えたと思う間もなく、広常の首はかき切られ、頼朝の前に差し出された」(『愚管抄 全現代語訳』大隈和雄 講談社学術文庫より)そうだ。
 しかもこの話は頼朝が建久元(1190)年、京都に上洛したときに後白河法皇に広常を誅殺した理由まで話していて、それを作者慈円(平安末期~鎌倉初期の僧侶で、摂政関白であり頼朝と比較的親しい九条兼実の同母弟でもある)が記している。広常が朝廷を蔑ろにして坂東を独立を主張してきたので成敗したと。慈円も頼朝の話を「本当とも思えない」とまで述懐しているのだ。

 それに引き換え『吾妻鏡』は、寿永3年正月1日条にたった一文で、去年(寿永2年冬)に大蔵御所がけがれてしまったと記されただけで殺害の記録すらない。だがその直後広常が生前、上総国一宮(現在の玉前神社)に奉納していた鎧の中に1通の祈願書が見つかったそうだ。その祈願書には頼朝の祈願の成就と東国の泰平を願ってのものだった。祈願書を知った頼朝は、広常を誅殺したことを後悔したようだが、そのことも『吾妻鏡』正月8日・17条に記されている。三谷はその祈願書が見つかったことは採用し、その伏線として広常が常々学がないことを気にして我流で手習をしていたことはあくまで加工である。

 (『鎌倉殿の13人』は)広常の誅殺までは、『吾妻鏡』と『愚管抄』に概ね則ってはいるのだが、それ以外つまり広常以外の何人かの御家人たちが、頼朝(大泉洋)への不満で謀叛を企てていたことは全て創作だ。ただ、確かに義仲の追討など御家人の所領とは何の関係もないことなので、頼朝への不満の理由付けとしては合点が行く。広常が謀叛人として誅殺された結果、御家人たちが謀叛を企てていたことが事実だったとしても鎌倉幕府の正史に残るわけがないので、この創作はあり得ると思う。

 『草燃える』でも『吾妻鏡』と『愚管抄』を概ね踏襲し、広常の謀反を否定してはいるのだが、実は全く違う展開になっている。

「義仲軍の狼藉などほっときゃいいんだ。がはははは。」 by『草燃える』の広常(小松方正)

 これが『草燃える』の広常(小松方正)である。『鎌倉殿の13人』を観て、これこそが広常だと刷り込まれた人がこれを観たらひっくり返るだろう。

 朝廷から上洛の要請がもたらされ、頼朝も早く義仲を追討したいのだが、繰り返すが、これが『草燃える』の広常なのである。


「俺は御所に失望している!」by『草燃える』の梶原景時(江原真二郎)

 さっきのが『草燃える』の広常なら、こっちが『草燃える』の景時(江原真二郎)であり、その肉付けも永井路子原作の『炎環』をがベースになっている。ちなみに景時は『炎環』の主人公の1人だ。
 上記の台詞は景時による頼朝(石坂浩二)への失望であり、唯一の朋輩である土肥次郎実平(福田豊土)への打ち明け話でもある。景時は実平に石橋山の合戦での貸しがあったことで、作者の永井が『吾妻鏡』に少しだけ色付けをしたのだろう(実平の斡旋が景時の再就職に功を奏した『草燃える』の方が、小四郎(小栗旬)が斡旋していた『鎌倉殿の13人』よりは自然である)。 景時は実平に誅殺のことまでは伝えてはいないものの、殺害現場には無理やり立ち会わせている。
 「平三(景時)、こういうことだったのか...」と。

 景時が頼朝に失望しているのは御家人に対して毅然とした態度を取らないからである。
頼朝の面前で下馬せずに礼をとらなかったりするわ、頼朝に水干のおさがりをねだって賜り喜んでいる岡崎義実をさんざん馬鹿にして掴みあいの喧嘩をするわ、義仲の追討を反対するわの大変なトラブルメーカーなのだが、景時はそれだけのことで頼朝に忖度をした結果、広常を粛清する決意にまで至るのだ。

 「私におまかせくだされば。」頼朝はうなづくが無言。
大倉御所で双六に誘い、対局中にわざと因縁をつけて怒らせたところを刺殺する。
「上意だ。これが上意だ。」
珍しく北条は関与していない。

 以上が『草燃える』の広常殺害事件の内容である。広常にやはり謀反はなく、景時による不意打ちにより誅殺されたことは『鎌倉殿の13人』と同様である。違うのは、当然創作の部分だが、『鎌倉殿の13人』では、他の御家人たちの謀反の気配があり、広常に二心がないことを知りながら、頼朝の意思で誅殺したことだ。広常の軍事力と影響力への脅威を感じた頼朝は、御家人たちの不平不満で起こる謀叛を利用して広常を誅殺したのだろう。『草燃える』では、やはり広常に二心はないものの、『鎌倉殿の13人』の頼朝と景時(中村獅童)の主体性と全く逆になっている。頼朝はあくまで受身であり、景時はより積極的で、自分の意思で暗殺を行っている。居合わせられた実平に同意を得たわけでもなく「御所の威光は俺たちが守る」と一方的に自己完結しているのだ。

 二作品の2人の主体性の反転は一体何を意味するのだろう?広常が下馬しなかったことや頼朝の水干を巡って喧嘩をしたことは『吾妻鏡』に記述されているが、『鎌倉殿の13人』はなぜかスルーしている。悪く言うと三谷の広常へのひいき目なのかもしれないが、『吾妻鏡』にだってフェイクがあると見越したとも言える。なぜなら広常に謀叛の企てがなかったことが判明し、誅殺した理由を正当化する手立てがなくなってしまい行き詰まってしまった。そこで苦肉の策として『吾妻鏡』の作者が広常の問題を急遽こしらえて羅列したのではと三谷は結論づけたのかもしれない。その結果三谷は『吾妻鏡』における広常の粗暴な振る舞いの逸話は採用しなかったということであろう。ただ三谷は粗暴な振る舞いの逸話は採用しなかった癖に、広常の死後に鎧の中に祈願書が発見され、その文書で広常が頼朝の武運を祈っていたことが証明された逸話は採用している。どちらの逸話でも『吾妻鏡』にしか記されていないので、信憑性が薄いことは同じだ。

 広常の誅殺における二作品の頼朝と景時の主体性の反転のことを続けると、どうしてもその責任の軽重を論じたくなってしまう。『鎌倉殿の13人』での誅殺への責任は、ほぼ100%頼朝にある。無論、側近の大江広元(栗原英雄)の力を借りたが頼朝が考え抜いた結果景時に実行させている。それに比べると『草燃える』での誅殺の責任はかなり景時に比重がかかる。 前述したように、広常の粗暴な振る舞いや義仲への追討を反対したことに対して「それだけのこと」とあえて言ったが、頼朝個人が鎌倉幕府構想のことを考えて決断するのならともかくとして、一個人の坂東武者である景時が、鎌倉幕府構想のことでそこまで身を捧げる理由としては弱いのだ。
 なので広常殺害事件に関しては『鎌倉殿の13人』の景時の方に不自然さは少ない。広常を殺す気など全くなかったはずなのに謀叛を起こす御家人たちの動向を探っていたらスパイとばれて拘束されてしまい、結局広常を殺さなければならない羽目になる。御家人たちに寝返っていないことを頼朝に証明しなければならなくなったのだ。頼朝の一言「疑いを晴らせ」と。
 そして『草燃える』の頼朝は、ある意味『鎌倉殿の13人』の頼朝よりもタチが悪いのかもしれない。広常の誅殺の責任の全てを景時に被せ、あとになって謀反がないことが分かり(ないとは分かっていたが)申し訳程度に、広常を「しんからの坂東武者」と褒め称えるのだ。つまり後悔していないことも隠蔽する。『鎌倉殿の13人』の頼朝は、謀叛の企てがなかった祈願書が見つかっていても、それでも「あれは謀叛人じゃ」と最後まで自分の意思は通すのだ。つまり『鎌倉殿の13人』では『吾妻鏡』での広常の粗暴な振る舞いの逸話は採用せず、尚且つ頼朝が悔やんでいたことも隠蔽してしまい広常を殺したことに後悔していないことを隠さない、よく言えば頼朝が正直に見えるように描いている。『草燃える』は『吾妻鏡』の2つの逸話を一応採用しているし、『愚管抄』に関しては、採用していない部分もある。広常殺害事件の再現は採用するが、頼朝が「しんからの坂東武者」と褒め称えてしまっている以上、後白河に広常が朝廷を蔑ろにして坂東の独立を主張してきたので成敗したことは採用していないことになる。逆にいえば『鎌倉殿の13人』の頼朝は「あれは謀叛人じゃ」と言っているので『愚管抄』での殺害現場も成敗の告白も採用しているということになる。今回に関してはどちらかというと『鎌倉殿の13人』は『愚管抄』側で『草燃える』は『吾妻鏡』側ということになるので、痛み分けということか。

 タイトル通り「足固めの儀式」は文覚(市川猿之助)が思い付いた偽の行事である。よって万寿の身柄を拘束し、頼朝に引導を渡そうという御家人たちの謀叛の計画が立てられていたという話だが、鶴岡八幡宮の儀式と同じ日に鹿狩りが行われるという展開を聞くと、どうしても曽我兄弟の仇討ちが発生した富士の巻狩を想起してしまう。おそらくそれを念頭に本話は考えられたのだろう。史実には残っていないこの謀叛に加担した実在の人物たちは、富士の巻狩を含めて作中で退場することになるが、そのほとんどが善児が関与することになるだろう。今や視聴者がオープニングのクレジットに梶原善の名を確認することが毎週の習慣になっているが筆者もその1人で、奇妙にも善児の存在に安心してしまうのだ。誰かが退場すると決まっているのに。広常が退場すると分かっているが、実行犯の景時が今は善児のボスになっているので、どうやって善児が関与するのか疑問だったが、あの関与の仕方は思わずそうきたかと膝を打った。

「北条は助けてくれないか」
謀叛に加わった中で唯一この台詞を吐いたのは平六(山本耕史)の父、三浦義澄(佐藤B作)だ。三浦家のバランス感覚こそが皮肉にも生命線になっている。

補足
 他の『草燃える』との相違点

 寿永2年(1183)泰時誕生、泰時が誕生するまで何も起こらなかった。心のどこかで泰時の出生の秘密が出てくるのではないかと淡い期待を抱いていたが、やはり『草燃える』で発生した出生の秘密は三谷的には許しがたいことなのだろうか?平六が八重(新垣結衣)に預けた娘は後の泰時の妻なのだろうとは思うが、そうであればまだ生まれてないはずなのだが、これも何かの伏線なのだろうか?

 広常誅殺での大江広元は随分とご活躍だったが、広元が『吾妻鏡』で最初に名前が出るのはその翌年元暦元年(1184)に公文所が設置された以降なので、このときは鎌倉入していなかったと思われる。『草燃える』では一ノ谷の合戦前後での初登場(岸田森)だったのでその点は史実に則っている。ちなみに漫画版『吾妻鏡』(竹宮惠子)では、鎌倉入の前の広元は健気にも京から献策を送り続けていたことになっている。

『草燃える』の広常が退場したときは、『鎌倉殿の13人』の広常に比べれば、誰が悲しむのだろうと思ったが、そうはいってもいなくなるとなにか寂しいものだった。『鎌倉殿の13人』では呼ばれなかったが広常の通称は”介の八郎”だ。「御所も出来ねえうちに御所様もねえもんだ」とときには真っ当なことも言っていた。演じていたのは小松方正、大河ドラマ5年連続出演者、芸達者な人だった。

なんとあの『草燃える』も動画配信サイトの『U-NEXT』にて5月29日まで全話無料(初回登録限定)で視聴することが可能になっているのでこの機会にぜひお試しあれ。


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