ピョートル・パヴレンスキーインタビュー(2016)/(附)ノア・スナイダー「身体の政治学」抄

■ピョートル・パヴレンスキーインタビュー「意志の自由があるところ生がある」(2016.01.15@Meduza)■

*前書き*

ピョートル・パヴレンスキー(Petr(Pyotr) Pavlensky, 1984年レニングラード生)はいまロシアで最も有名なアクティヴィスト=アーティストといっても過言ではない。パヴレンスキーはその行為の過激さで有名である。Pussy Riot支援のために唇を糸で縫ったアクション「縫合」(2012年)を筆頭に、裸体に鉄条網を巻きつけたり(アクション「屠殺体(トゥーシャ)」、2013年)、自分の陰嚢を赤の広場の地面に釘で打ち付けたり(アクション「フィクセイション」、同年)といった観る者にも痛みを抱かせるような自傷的行為を行う他、ペテルブルグの橋上でタイヤを積み上げて燃やし金属板を叩いて音を出すことでウクライナのユーロマイダンを再現する集団的アクション「自由」(2014年)などを行ったアーティストである。2015年にはロシア連邦保安局の建物のドアに放火した(アクション「脅威」)が、これがもとで逮捕・拘留された。裁判では有罪となり、約50万ルーブルの罰金が科せられた。

*本文*

アクショニスト=アーティスト、ピョートル・パヴレンスキーは、2015年11月から破壊行為の咎で起訴され拘置所に収容中である。パヴレンスキーは、アクション「脅威」のなかでルビャンカにあるFSB[連邦保安局。KGBの後身]の建物の扉に火をつけた。美術評論家が、燃えるFSBの扉をバックにしたパヴレンスキーの姿は現代ロシアの重要な象徴の一つであると論じた一方で、司法はパヴレンスキーを逮捕したのである。『ノーヴァヤ・ガゼータ』のナターリヤ・ゾートワ記者が『メドゥーザ』のために特別にパヴレンスキーと言葉を交わした。このインタビューは「FSINレター」システム[*拘置所に拘留されている人にメールや写真を送れるwebサービス]のもとに行われた。

どんな状況に置かれていますか?

援助をしてくれた皆さんのおかげで、必需品は十分すぎるほどです。オレンジがたくさんで、監房の何人かの隣人をもってしてもいまの今まで食べつくせていません。おかげでいま監房は何より柑橘類の倉庫に似た感じです。食べ物を快楽主義的なほど大量にもらった他に、本ももらいました。これもたくさん、ちょうどインスティチュートに通うのをやめてからここ数年の間読んでみたかったものがほとんどすべて揃っていました。

獄中の生活リズムは、教育機関の最良の伝統のなかで成り立っています。全体としては、(ちょっとした装飾の違いを除いて)私が学んでいた学校に似ています。ただ、ここでは本をゆっくりと勉強する時間がたっぷりあります。いまフロイトの『トーテムとタブー』を読んでいます。面白いのは、ロシアの監獄というコンテクストの内部でこの本を読むと、ロシアの特殊組織、政治組織に関して広範な理解を与えてくれることです。

つまり、大学を途中で辞めたと?

最初、私はモニュメンタルな絵画を学びたかったのです。それが芸術と何らかの関係があると考えていたからです。アクション「縫合」まで、わたしは2つの教育センターの生徒でした。シュティグリッツ・アカデミーと、PRO ARTE基金です。どちらについても卒業することを拒否しました。第二学年にあがる頃には、教権主義的なイデオロギーが浸透していること、財力のあるパトロンを探し出すデザイナーとしての人生を至上の価値とするシステムがまかり通っていることがもう明らかでした。ボリシェヴィキ体制下では、そうした「デザイナー(oformitel’)」がイデオロギーと党のエスタブリッシュメント層に奉仕していたのです。体制の公認のもとで奉仕する人物の役を演じる人生というパースペクティヴは、私にはまったく魅力的ではありませんでした。その時私は履修計画を疑ってかかりはじめ、それから授業に出ることそのものをやめたのです。

あなたを有名にしたアクションの道具は、あなたの身体でした。そして突然アクション「自由」[*前述]で火が現れました。火は何を象徴しているのでしょう?

アーティストとして、私は象徴にかかわる仕事をしているのではありません。権力の道具にかかわる仕事をしているのです。芸術全般を、私は意味にかかわる営み、これらの意味の表現の形式として理解しています。

ですから火は、シンボルではない。火は火であり、私にとってはそれが何の用途に用いられるかが重要なのです。火は氷を溶かし、明るく照らし出します。闇を切り裂き、隠されたものを明るみに出します。権力の装飾のむこうに隠されているものを明るみに出すこと、これが私の仕事の基底的な一つの局面を成します。それからもう一つ、火には形態を変貌させる大きな可能性があります。この変貌の良い例は、ルビャンカと、ルビャンカがその背後に身を隠していた「鉄のカーテン」です[*編集部註:アクションの名称ははじめ「脅威」だったが、間もなくルビャンカの扉が金属製の保護被覆で閉ざされているのを撮影した写真が現れ、SNSユーザーがアクションを「鉄のカーテン」と呼びはじめた。]。

逮捕と裁判は、ルビャンカで始まったアクションの続きなのでしょうか?

はい、続きですが、アクションそのものではありません。アクションは、ポリティカル・アートの一フラグメントに過ぎません。権力は私が起こした衝撃を拡大してくれています。鉄のカーテンの向こうのルビャンカこそがこれを証明しています。訴訟や審理、裁判が起こったことについては、ポリティカル・アートの形式とその境界に過ぎません。

いまや国家の領域内に存在する誰もが、体制とそのイデオロギーによる制約を受けようとしているのです。誰にとっても、許されることと許されないことの境界と、許容される変動領域が決められています。あらゆる国家にとって、人は国體(gosudarstvennnost')をつくるための材料であり、オブジェクトであり、生物学的なマテリアルです。一方で境界と形式の確立は、押しつけられた選択のスタンダードとの不協和であって、一人ひとりの人間の主体性と意志の自由の原則を守り抜くことです。加えて、芸術が意味とその表現にかかわる仕事であるということを私は確信しています。それでは体制のイデオロギーによって形式・課題・可動域があらかじめ制限されているときに、何らかの意味とかかわる仕事について言葉にすることは可能なのでしょうか?

国家の方からは、この物体化(objectivation)はどのように現れているでしょうか?

国家の要求、例えば新資源の獲得や人口の増大について話すときに、一人ひとりの、幾千もの兵士や妊産婦一人ひとりの痛みについて喚きたてる人は誰もいません。これを話しの対象にさえしないのです。誰もが義務の遂行だとか母としての幸福の獲得だとかについて話します。「英雄=母」賞という称号さえあるようです。その人たち一人ひとりの痛みは、緊急医療を受けるのでなければ、配慮の対象にはならないのです。

国家は国民に、マスコミや医学界の力を借りて、身体への向き合い方について不適切な恐怖症を教え込み、安全への顧慮を信仰へと持ち上げました。そうしなければ国家は、国體をつくりあげるための新しい自然資源および人的資源を得られないままであるからです。

そうした状況で、ひとはどうやって自分自身を勝ち取ることができるのでしょうか?

政治の基底的な道具とは、恐怖であるという意見があります。これはもちろんそうなのですが、私はこの道具に(世間の)要求を付け加えねばならないと思います。これが、統制と人々の服従との基底的な梃子なのです。イデオロギーと油でギトギトの鶏のグリルへの恭順な信仰というわけです。どこであれ、完全に恐怖を持たない人を見つけることは不可能です。人はみな恐れを、あれやこれやのものに対して恐れを抱いています。だから私は、誰かが恐怖全般を打ち負かすことを目指さねばならないとは思いません。それよりは、恐怖を慣習にし、何も考えずに服従するよう人に強いるような自動化作用を打ち負かすことを目指すほうが良いでしょう。

以前のアクションもそうですが、なぜあなたはFSBでのアクションのあと身を隠そうとしなかったのですか?

私は決してどこへも逃げたりはしません。沈黙の形象であり続けること、そして権力に反応しないこと。これが私の行為の原則の一つです。

裁判で、あなたは時効中断措置として沈黙をまもり、ただ罪状を(センツォーフとコリチェンコのように)「テロリズム」と認定し直すように求めています。[*訳註:オレグ・センツォーフとオレクサンドル・コリチェンコは、ウクライナ出身の映画監督(前者)、アクティヴィスト(後者)で、2014年のロシアによるクリミア併合に際してテロ行為を行った咎で同年FSBが逮捕。現在それぞれ20年と10年の自由剥奪刑に処せられている。アムネスティ・インターナショナルは逮捕の不当を指摘、解放を要求している。]

私は、その中に私が生きている政治的コンテクストにかかわる仕事をしています。はじめにも、プロセスの中でも、これは所与のものとして存在しています。FSBがテロリストのでっち上げをアクティヴに利用している事実は、もう長いこと明らかです。裁判において、私は世間で有名なエピソードを喚起しました。「クリミアのテロリストたち」の他に、ABTO事件と呼ばれるケースがあります[*訳註:ABTOは「戦闘的テロリスト自治集団」の略称。ナショナリストの若者のグループで、FSBの建物に火をつけるなどした]。このケースでは、(私たちの行為と似ていて)放火罪になるのですが、しかし私たちの場合はさまざまな罪状で起訴されようとしています。これは、ABTOに対する、あるいは私に対する、法廷と司法の横暴です。

多くの人が、あなたの姿勢に強い印象を受けたが、それを繰り返すことは決してできないだろうと言っています。みなそれぞれ失いたくない自分のよく整備された人生があるのです。

ひとがどうして「よく整備された人生」にしがみついているのか、私にはわかりません。それは人生ではなく日常の牢獄です。生きることは、意志の自由があるところにあるのです。

いま起きていることに注意を払わないことや、自分のプライベートな人生を生きることは、意志の自由の行為となり得るでしょうか?

あなたがおっしゃっていることは、現実逃避です。しかしこの場合の現実逃避は、単に逃避であるだけでなく、憎むべき体制を間接的に支持することにもなります。目を閉ざすこと、そしてこうした種の沈黙は、すべて満足いくものだということを示すことです。こんなところで、いったいどんな自由について話ができるでしょうか。

私は、あなたの恋人のオクサーナと法廷で話しました。彼女がことさら言っていたのは、あらゆる消極性が、連ドラをみるためにソファーに座ることすべてが、権力を支持することなのだということでした。立場は2つしかない、賛成か反対かなのだ、と。反対を表明しないのなら、それは間接的に「賛成」することになるのだと。これはあなたの意見でもあるのでしょうか?

オクサーナには賛成ですが、部分的に、です。いま起こっていることは自分に関係ないという風を装うとき、ひとはその消極性によってアクティヴに体制を支持することになります。ですが、これは単に立場の問題です。ポリティカル・アートのプロセスについて話をするとき、あらゆることがもっと複雑です。何よりも、これは理解=解釈を求めるための闘争なのです。例えば、生の意味はどこにあるのかといった理解=解釈です。解放を求める日常的な闘争にあるのか、それとも安逸な服従にあるのか?

本当にその2つしか答えがないのでしょうか。

いいえ、違います。国家がひとの生というものを変えようとしたがっているところのものと、本能的な防衛反射が駆り立てるところのもの、そこのところを意識的に対置したまでです。この反射とは、つまりひとの生を家畜の生き方と何ら変わりないものにしてしまうような諸条件からの解放をひとが目指すことです。よくよく肥えさせられた家畜の[生き方]といってもよいでしょう。

安逸さ(快適さ)は、何よりも麻酔であって、引き返せぬ死と[生命活動]停止への近接のプロセスをそこまでの苦痛をもたらさないようにしてくれます。が、あらゆる解放は超絶な努力によってもたらされます。けれどもそれは、単に[いまいる]場所に留まり、いまとっている立場を固持せんがために必要であるだけの努力に過ぎないのです。

あなたが苦行者であること、そしておそらく物ごとにほぼまったく頓着なさらないことはあなたについてよく言われます。あなたは主義として消費というものを何か悪いことだと考えているのでしょうか。

私(とオクサーナ)は、「善し悪し」の原則に拠って立ちはしません。物が備える重さと軽さとを考慮して歩を進めています。そうすると1トンもあるような家具やら諸々のがらくたを背負わされたロバみたいな生き方という考えは、私たちにはまったく魅力的ではありません。何のために自分の人生に重荷を負わせるのでしょう? 人生は一つきりのものです。身軽に、そしてあたかも自由であるかのように生きる方がいい。

他者の所有物を廃棄することは芸術行為とはなり得ないと言ってあなたを非難する人たちもいます。曰く、あなたはまたこんなふうにして誰かのところのドアに火をつけるだろうと。こういう意見に対して何か答えるべきことはありますか?

ルビャンカの意義や歴史的な役割というコンテクストの中で、上塗りのニス層の損傷について懸念することは、疑う余地なく頭のおかしいことであると言えます。ですが、より程度の大きい狂気は、自分の家のドアとこの組織[FSB]の扉を比較することにあります。ストックホルム症候群[*訳註:監禁事件等の被害者が、加害者に愛着を抱く心理状態]です。[この2つのドアが]比較対照できるのだとこの人たちが本当に確信しているのならば、彼らのドアにいったい何をしでかしたのか、考えるのも恐ろしいと、私は言いたい。

■附■ノア・スナイダー「身体の政治学」■附■

ネットマガジン「The Economist 1843」より抜粋して翻訳

*ロシアのアクショニズム*

アクショニズムがモスクワに到達したのは1990年代のことで、そのころ「恐るべき子供たち」といった態の一握りのグループがストリートに出て、ばらばらになりつつある世界をとらえる挑発的なパフォーマンスを行っていた。1991年のはじめ、ソ連崩壊のほんの数か月前だが、アナトーリイ・オスモロフスキー(Anatoly Osmolovsky、1969年モスクワ生)が赤の広場に仲間のグループをあつめ、横になって身体で「хуй(khuj;ペニスの意)」という文字を形作るようにした。このパブリックなアクションは、彼らのアイディアの受け皿となる制度的なプラットフォームが存在しなかったことへの反応だった、とオスモロフスキーは言う。「我々に残された唯一のものが、ストリートだったのです」と。

数年後、オレグ・クリーク(Oleg Kulik、1961年キエフ生)はモスクワの通りを犬となって裸で這いまわり、通行人に噛みついたり吠えたてたりしながら歩き回ることで名をあげた。この行為は後に西側のギャラリーで繰り返され、大きなファンファーレを受けることになる。クリークにとってアクショニズムとは、すべての参照点が消えてしまった国家=ステイトの中におけるアイデンティティをめぐる問題だった。「残されたものは身体だけで、それは以前には決して自分に属していなかったものです。1990年代の最初のアクショニストたちはこの身体、裸の人間=男の裸の身体を、荒涼とした街のただなかに差し出したのです」とクリークは語る。「それは力強いイメージです。集団主義の不滅の神話、群集やら党派やら階層やら諸々の党の中から、ひとりの人間が、何も持たず後ろ盾となる者もない個人が出現するのですから。彼はすべてに反対する。しかしだからと言って闘っているというのではなく、単に『おれは存在している!ここにおれがいる、そしておれこそアートなのだ』と言いたてるのです」。

アクティヴィストのなかでもっとも論争を呼ぶものが、パヴレンスキーのお気に入りでもあるアレクサンドル・ブレネル(Aleksandr(Alexander) Brener、1957年アルマ=アタ生)だ。1990年代を通して、彼はモスクワをテロ的な行為で恐れさせた。彼はボクシンググローブをつけてクレムリンで叫びたて、ボリス・エリツィンに喧嘩を挑んだ。また、ソ連の秘密警察の創設者フェリクス・ジェルジンスキーの像が建つルビャンカ広場に現れ「私が新しい宣伝部長だ!」と叫びたてた。のちにPussy Riotがパフォーマンスを行うことになる教会を建てるためにモスクワの中央プールが更地になる直前に、プールの飛び込み台の上でマスターベイションをしたこともある[*訳註:ちなみにもとは教会であったところをソヴィエト宮殿なる建物をつくるために更地にしたのだが、結局資材不足などで巨大なプールになった場所であり、そこにソ連崩壊後教会が再建された]。しかし90年代の終わりまでには、(アクショニズムという)ムーヴメントはフェイドアウトしてしまった。「内的な倫理的資源を多量に必要とするのです」とオスモロフスキーは述べ、多くのアクショニストが7年以上もの間活動できなかったのだと推察してみせる。オスモロフスキー自身も、投獄の危機に直面したときにアクショニズムを棄て去った。ブレネルはロシアを去り、クリークは彫刻へと退却を余儀なくされた。

2000年代中盤の石油ブームのさなか、主にモスクワを拠点とする「ボムビールィ(Bombily)」グループと、Pussy Riotを輩出したペテルブルグの「ヴォイナー(Voina)」の周囲にロシア・アクショニズムの第二波が戦力を結集させていた。1990年代のモスクワのアクショニストたちと異なり、彼らは集団で活動し、逮捕されないことを使命とした。ヴォイナーは、ペテルブルグにあるFSB[*訳註:KGBの後身であるロシア連邦保安庁]の建物の隣の跳ね橋の上に巨大なペニスを描いたことでその悪名をとどろかせた。橋が上がると、ペニスが勃起するのである。こうした先行するアクショニストたちはいたずら心に充ち、カーニバル的である。彼らは、国家が比較的恐ろしくなかった時代を反映していた。

パヴレンスキーの作品はそれとは対照的で、3期目に入ったプーチン政権のより抑圧的な傾向を糧として生まれている。表現のための場所が委縮するのに従い、パヴレンスキーは強さを増す一方だ。パヴレンスキーのアートは核心のところでは個人の実存を主張する試みであり、生死にかかわらず、過去か現在かも問わず、あらゆるものや人を全力でそのオブジェクト(物体)にしたてようとする国家=ステイトの内部にあってサブジェクト(主体)であることが可能であることを証明するための試みである。そうすることによってパヴレンスキーは自我の場としての身体を取りもどすのである。「パヴレンスキーは、自分以外の人が負わせることができる傷よりもはるかに常軌を逸した、痛々しい傷を自分自身に負わせることをいとわない人間を表出しています」とマラート・ゲルマン(Marat Gelman(Guelman)、1960年モルドヴァ・キシニョフ生のコレクター・ギャラリスト)は述べた。「そうすることで彼はシステムの弱みを明るみに出す。あなたたちの権力は私の身体が始まるところで終わる、なぜなら私が自分に対して行ったことよりも多くのことを私に対して行えないからだ、と」。

パヴレンスキーの最良の作品は、文化的・歴史的・政治的な参照基盤を持ち、荒々しくも学識豊かな精神の産物を含んでいる。例えばアクション『フィクセイション』は、まずはモスクワ・アクショニズムの草わけに会釈をし、収容者たちが抵抗の意を示すためその生殖器をベンチに釘で打ちつけていたロシアの矯正収容所の言語を流用している。アクション『分離』はゴッホに基づく行為である。アクション『脅威』に関する「テロリストの脅威という面構えにあたえる社会の平手打ちである」というパヴレンスキーによる説明は、エポックメイキングな立体未来派(クボ・フトゥリスト)のマニフェスト『社会の趣味への平手打ち』(1912年)の明らかな反響である。そのマニフェストはラディカルなロシアの詩人たちのグループが、プーシキンは「近代という船から」叩き出されるべきだという主張をしたことで有名である。(中略)

*社会とアーティスト*

社会におけるアーティストの役割、あるいはアートとアクティヴィズムの境界線をめぐる議論は長年にわたるもので、世界中で起こっている。だが、アイザイア・バーリン(Isaiah Berlin、1909-1997;イギリスの哲学者)がエッセイ「アーティストのコミットメント:ロシアの遺産(Artistic Commitment: A Russian Legacy)」の中で指摘しているように、この難問がロシアよりも深甚な影響を与えている場所は他にない。ソヴィエトの詩人エヴゲーニイ・エフトゥシェンコはこのことを韻文でとらえている。

ロシアの詩人は詩人以上だ
ロシアで詩人になるべく生まれる者は
市民精神への誇りが内を歩き回る者
満足も平和も知らぬ者。
ロシアの詩人はその時代のイメージ
突如現れた未来の亡霊。

失敗に終わったデカブリスト蜂起(1825年)勃発のさなか、批評家ヴィサリオン・べリンスキー(Vissarion Belinsky、1811-1848)はこう論じている。「芸術から大衆の興味関心に奉仕する権利を奪うことは、芸術を高めず、むしろ卑しめる。芸術をある種の快楽的享楽の対象へと、また怠惰な無精者の慰みものへと形を変えるような生き生きとした力の多くを奪うことを意味するからである」。彼の信条である「我らの時代は確信を渇望する、時代は真実への飢えによる苦痛に苛まされている」ということばは、プーシキンがあるとき「詩の目的は、詩である」と主張したように、芸術のための芸術をいう考えかたを信奉していたロシア・ロマン派への応答であった。 

べリンスキーの呼びかけは「不穏さのもっとも初期の、そしてもっとも痛切な定式化であって、それからというものロシアのインテリゲンツィアを永久に苛むことになった、苦痛に満ちた自分自身への問いかけであった」とバーリンは書いている。社会に自覚的なアーティストのドクトリンは、過激派とノンコンフォルミストの世代へつづく道を整備した。例えばニコライ・チェルヌィシェフスキー(Nikolai Chernyshevsky、1828-1889)の書いた1863年の小説『何をなすべきか?』はレーニンを革命へとそそのかし、革命が進みつつあった世界に抗して闘うソヴィエトの異論派にも影響を与えた。

ロシアにおいて社会に自覚的(ソーシャリィ・コンシャス)なアーティストになることは、国家=ステイトを相手にすることである。ロシア語で「権力(power)」のことを「vlast’」というが、このvlast'ということばはまた「政府」やロシア人がその支配者を言い表すのに用いる抽象概念と同義でもある[*スナイダー註:ロシアにおいてフーコーは陳腐だと感じられる。vlast'がどこにでもある、というのは大発見でも何でもないのである]。ロシアの文化人像の多くがプーチン主義を称揚するか、そこから逃げようとしている時代に、パヴレンスキーは「単なる詩人以上の詩人」が飾ってきた地位を占めている。「パヴレンスキーは時代の精神であり、良心かつ勇気だ」とトロコンニコワ[*訳註:Nadya Tolokonnikova、Pussy Riotのメンバー]は言っている。

パヴレンスキーの作品は解放を目的とする。『官僚主義の動揺とポリティカル・アートの新しいエコノミー』という来たるべきマニフェストのなかで彼は「『聞け、反復せよ、服従せよ!』とvlast'の声は言う。『話せ、否定せよ、反抗せよ!』とアートの声は言う」と書いている。アートのためのアートには何の意味もないと彼は考えており、代わりに変革、進歩、目覚めとしてのアートを信じているのだ。「ロシアにおける芸術の歴史は、個とvlast'との衝突の歴史なのです」と彼はわたしに語った。 

(以下略)

お読みいただき、ありがとうございました。noteでは、サポート機能を通じて投げ銭をすることができます。資本主義に対する考えはいったん置くとして、活動への共謀・連帯のしぐさとして、サポート機能をぜひご活用ください。