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長野温泉紀行

 浅い眠りで軋む身体を引き摺りながら、ぼんやりと照らされたステップを降りていく。触れた外気はピンと張り詰め、部活動の遠征だろうか。揃いのユニフォームを着た高校生らの昂りが空気を這って肌を擦った。
 私は、今年二度目の長野旅行に来ていた。
 行程は前回とさして変わらず、湯に浸かり、宿に泊まるということだけを目的とした時間に追われぬ旅である。変化といえば、着込む上着の枚数が少し嵩んだことくらいであった。時計は午前六時をまわらない頃、吐く息はそのコントラストを見る間も無く、深い空へと吸われていく。凍てつく空気が、時の流れまでも止めてしまったような世界で、信号だけがひとり、規則正しく活動を続けていた。私はその点滅からやや遅れたリズムをとりながら、最初の目的地である湯屋へ向かって、横断歩道を踏み出した。
 まだ記憶に新しい駅前の飲み屋街を早足に抜けると、すぐに閑静な住宅地へ入った。そこからさらに十分ほど歩くと、庭を広めに構え、家屋をずんと横たえた、田舎然とした風景へと移り変わっていく。視界は寒々しさを増した。私は道路脇に溶け残る、雪の小山を軽く蹴った。寂しさを紛らわそうとしたのか、迫る非日常に胸を高鳴らせたのか、どちらか分からなかったが、暗がりへ音もなく消えた雪塊はいっそう胸のざわめきを引き立てた。
 道端の草木が伸び伸びとしてきたところに、一棟の小さなアパートがあった。私はその美しい古びかたに、学生時代に住んでいた加茂川沿いの安アパートを思い出した。剥き出しの薄扉。あの薄扉を隔てた先に、人間の、私の知らない誰かの生活がある。彼はこのあと、冷えきった部屋の中で極めてゆっくりと目を覚まし、同じようにその身体から布団を剥がす。そして「今日も一日が始まる」と心の中で念じる間もなく、学校なり職場なりへとその歩みを向けていくのだ。駅からここまで二十分ほどだっただろうか。そこへ向かう「彼」は私の夢想の中の人混みへと消えていった。
 旅は、地理的な世界の広がりを教えてくれるだけでない。私の知らない土地、私の知らない人が、私の知らないままに生きていく。そんなものたちを偲ぶ安らかな心の広がりをも与えてくれる。芭蕉もこんな思いで旅を見つめていたのだろうか。
 後方から車のヘッドライトが近づいてきた。この時間に、この道を行くのは、おそらく同じ目的地を目指す人だろう。光は、私の背中をなめらかに撫で、そのまま行く道の先を照らしていく。伸びていく明かりを見つめていると、瞬間。熱湯の心地よい痛みを、隣を過ぎゆく誰かと共有したように思えて、既に温かいような気持ちがした。
 広い駐車場には予想していたよりずっと多くの車が整列していた。トランクをゾロゾロと尾鰭のように引きながら、その間を慎重に縫って進んだ。暗闇の中、私の弱い視力では施設の全体像を捉えられなかったが、どうやら奥へ奥へと続く平屋のようであった。判別しづらい入り口から館内へ入ると早朝にしては冴えすぎな、受付の若い男性が挨拶をくれた。私は空いている下駄箱をひとしきり探したあと、彼に荷物を預けたが、溌剌とした彼から見る私は、どうにものろまな気がしてばつが悪かった。
 更衣室は還暦を過ぎたと思われる老躯が八割を占めていた。常連なのだろうか、数人が競馬や麻雀の話で盛り上がっていた。佐藤さんが勝ち、加藤さんが負けた。そんな話であった。彼らの中にとても幸福な時間が流れているのが分かった。しかし同時に、それがひどく狭い世界であることに怖くもなった。私は「老いても友人と朝風呂に浸かり、他愛もない話をする」ことに憧れながらも、目の前のそれに収歛していくことを、運命を地に下ろしてしまうことを恐れていた。私が真に欲している幸福、それは常に私の知らない幸福であった。私は私の時間に思いを巡らせ、それがまた同じところへ還って来るころ、洗髪を終えた。
 浴場は大きく内風呂、外風呂、蒸し風呂と三つに分かれており、それぞれにそれなりの広さがあった。私は五分ほど内風呂に浸かったあと、耐えきれなくなって外風呂へ向かった。外気は鋭く冷え、体に纏った熱を毎秒に削ぎ落としていく。先客との間合いを慎重に測りながら腰を下ろす場所を定め、ゆっくりと肩まで浸かった。目の前には掛軸の中にあるような立派な山水があった。距離があるものの、迫るように視界を覆う圧倒的な山肌は、山崩れを起こしたのか、人工的に切り開いたのか、いずれにせよ自然の物々しい魅力があった。湯気をさらう風が見えた。頭にのぼる熱は思考に靄をかけた。
 先刻、頭上を駆けていた私の過去と未来はどこかに霧散してしまって、今こうしている私だけが残った。目の前のあらわになった土色がやけにさっぱりとして見え、山と私だけが静かに裸で向き合っている様な錯覚に陥った。
 ふと、靄がかっているのは思考でなく、かけている眼鏡ではないかと思った。そのくもりを手元のタオルで拭き取り、もう少しこのままでいようと思った。
 また、眼鏡に靄がかかった。


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