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私の幽霊

 ある晴れた春の日の午後。青々とした銀杏の木を見上げながら、私は小さな公園のベンチにぼんやりと腰掛けていた。あたたかな陽気は魂を緩ませ、爽やかな草木の香りは風となって、それを遠い土地へと綿毛のように吹かせてしまった。飛び去った魂はどこか遠い土地から我儘な引力を発し、私の身体はここにありながらも、どうしようもなく旅を欲していた。

 人が旅を求める。それは、退屈な日常から脱するためであり、息苦しい人間関係から解放されるためであり、新天地を目指す本能的好奇心に逆らえないためでもある。しかし、その時、私は確かに「私自身を失ってしまいたい」純粋にそう願っていた。

 足元に鳩が一羽。彼はまるで私なんか居ないかのように、その立派な鳩胸を堂々と張って目の前を横切って行った。公園には親子連れが二、三あるようで時折賑やかな声が空に響いていた。羽ばたきが遠くで、だがはっきりと聞こえた。先程の鳩だったか。それを確かめようと、またゆっくりと視線を銀杏の木に戻した。

 旅を夢想するとき、心の眼はいつも中空を漂う魂と同じところにある。〈わたし〉がからっぽになって、それが存在しないままに、いつもと変わらぬ社会の営みが紡がれていくのをそこからじっと見つめている。そうしていると、そのまま天にも届くほど、心底安堵してしまうのだ。おそらく、旅の動機はこの恍惚とした「身支度を済ませた」状態に集約し、そこからどこへ向かうのかは、さほど重要ではない。

 「身支度を済ませた」瞬間には、前にも後にも、何もなく、全てがあった。圧倒的ながらんどうは、空虚に満ち足りた充足感で包まれていた。私にとっての旅は、そうした精神的夢想の追体験に過ぎなかった。なぜだか、見えぬものこそ、鳩よりはっきり見えていた。

 しかしながら、その儚い疑似体験なるものは、その空虚さ故に私の求めるあわいに近しい魅力を湛えていた。このちぐはぐな魂と身体もこれ以上、そのままにしておくことができないように思われた。私はやはり、旅に出ようと思った。 

 海を見に行くことにした。瀬戸内の突き抜ける青を目にすれば、現実の美しさをもう少し信じられるような気がした。列車に揺られて3時間。それ以外の予定をたてる必要もなかった。

 列車の車窓とは、あらゆる風景を捉える額縁であり、流れ続ける時間を可視化するスクリーンである。時と場所から解放された車内には人々の思念だけが残されている。ここから、ここではない何処かへ向かう。「身支度を済ませた」状態のひとつである。

 それを眺め、物思いに耽るうち、意識は車窓そのものとなっていった。そうして手放された自我の知らないうちに、魂と肉体は調和されていった。磯の香りが鼻腔をくすぐったあと、私はようやく降車すべきことに気づいた。

 ホームに降りたち、ふと面を上げると、そこにひとりの少女が立っていた。彼女は泣いているようにも見えたし、笑っているようにも見えた。微笑みにおける優しさとは、人生の悲哀の裏返しであることを証明するような表情であった。私は暫くそれに見惚れた。鳥の羽ばたきが遠く聞こえ、意識が音のする方へ向いた。瞬きをひとつして、次の瞬間、少女はそこから消えてしまっていた。ホームには私だけがひとり立っていた。喧騒はなく、いつの間にか列車も駅を出ていた。だが、あの少女はまだ何処かからか私を見つめている。そんな気がした。

 彼女にまなざされる私は、私自身がまだ幽霊ではないと悟った。地につけた足の裏からは、大地の鼓動が流れ込んでくるようであった。

 胸の中で、得体の知れない、何かあたたかいものがくすぶった。私はその内側から発露する魔力に惹かれるようにして、清閑なホームを後にした。


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