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自省の時代に考える物語との向き合い方──京都アニメーション作品「小林さんちのメイドラゴンS」を起点に


はじめに

 2021年7月7日、京都アニメーションTVアニメ復帰作となる「小林さんちのメイドラゴンS」の放送が開始された。本作はクール教信者による連載漫画「小林さんちのメイドラゴン」(双葉社)を原作とし、2017年に放送されたTVアニメ「小林さんちのメイドラゴン」の第2期にあたる。

 主人公、小林さん(以下、小林)はシステムエンジニアとして働く26歳の独身女性。ある日、酔った勢いから異世界のドラゴンであるトールを助けてしまう。トールは小林に助けられた恩義と共に彼女に好意を抱き、押しかけメイドとして同居を始める。公式サイトでは本作を「人外系日常コメディ」と評している。

 本稿ではこのTVアニメ「小林さんちのメイドラゴンS」第1話、及び第2話[2021.7.18 現在既放送分]を起点としつつ、他にも近年の主だったアニメーション・漫画作品を参照し、現代における物語(フィクション)と受け手の距離感、それぞれの立ち位置を模索していく。


2017年の着地点

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──私は、小林さんと一緒に老いていくことはできない。いつかお別れする時が必ず来る。それでも、私は小林さんに会わなかった方がよかったなんて絶対に思わない。ただ、今、この時間を大切に── 「小林さんちのメイドラゴン」第13話より

 「小林さんちのメイドラゴンS」とは如何なる作品なのか。どのような性格を抱えているのか。その見通しを明るくするために、まずは「小林さんちのメイドラゴン」(第1期)での文脈を読み込んでおく必要がある。

 先に述べた通り、本作では小林とトール二人のコミュニケーションを中心に据えたコメディ、いわゆる日常ものとして、時間・物語を重ねていく。賑やかな二人の周りには次第に他のドラゴンと人が集まり、増えていき、また新たな出会いとコミュニケーションが生まれていくのである。

 軸は至ってシンプルな本作の主となる要素を一つ挙げるとすれば、それは人間と日常的な会話を行っているのが異種属(架空の存在であり、人間ではないという感覚の断絶をもつもの)だということである。ある国で生まれ育った人間が初めて別の国へ行き、そこで暮らすという時、本人にその気はなくとも、現地の人々を驚かせたり、傷つけたりすることがあるだろう。作品ではそうした常識や価値観の齟齬からくる衝撃(コミュニケーション不全)が新たなコミュニケーションを、そして物語を駆動させている。しかし、そうした仕掛けそのものは他のあらゆる物語──そして当然現実──にも存在する。

 ここで指摘しておきたいのは、そうしたシステムに関する普遍性についてではなく、そこに潜む「相互無理解から目指す相互理解」のような矛盾性についてであり、問題の解決(明確な解答)を必要としない日常系作品においては、しばしばこうした問題の解決不可能性に対して自覚的な台詞が見受けられるということである。

 第1期最終話「終焉帝、来る!(気がつけば最終回です)」では、これまでの穏やかな雰囲気から大きく転調し、唐突な日常の終わりが描かれる。この最終回での不意な幕切れは、まさに上記の問題を──「終わらない」ことを含意する日常を一度「終わらせる」ことによって──浮き彫りにしている。実際には、トールが人間との寿命の違い(生物的な時間のズレ)から、小林と共に過ごせる絶対的な時間の有限性、そして「日常」の特別性に気づくという丁寧な手法で終幕の予感が描かれているのだが、ともかくこうした過程を経て、第1期最終シークエンスは、はじめに引用したトールのセリフへと回帰していくのである。『今、この時間を大切に』と語るトールの決意は一見素朴に見えるが、そこに隠されるのは自らが刹那主義的であるという自覚と、それでもなお未来に対し責任を負おうとする覚悟の表れであると言える。「小林さんちのメイドラゴン」そして続く「小林さんちのメイドラゴンS」において注視すべきことは、常に彼女たちの生活が、決定的な矛盾の中でそれに対する自省とその余地をもって送られているという自己批判的な態度にこそあるはずなのだ。


小林の現代的社会観とドラゴン──自省の時代と物語

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──争ったり傷もできたりするんだけど、それを見て見ぬフリをしたり、汚いもので埋めたりしてもかまわない。気持ちなんて正しく把握してなくても自分なりに合わせてきたし何とかやっていく。私そういう人間。──「小林さんちのメイドラゴンS」第1話より

 「小林さんちのメイドラゴンS」第1話で強調されたのは小林の日常実践的な価値観であった。この現代社会観を反映した小林のレンズはドラゴン(≒虚構)と対する為の導入として今後も機能していくだろう。少なくともこの序盤で注目すべきは小林とイルル、二人の価値観を巡るシリアスな問答である。

 1期に見られた通り、小林のどこか達観したような、しかし確かに地に足をつけるその視座は、ここでも依然と機能している。そして今回取り上げる台詞はその象徴であり、だからこそ、その一言から「読み込み」と「スルー」が同時に発生しうるということも先に述べておきたい。

──凶悪で邪悪な混沌の竜を甘い言葉で手懐けて無害にしようとしている。今までの教えを信じる?私に騙される?──「小林さんちのメイドラゴンS」第2話より

 小林はイルルを説得する際、敢えて『信じる』『騙される』という言葉を使う。これまでに述べた本作の態度を前提とすれば、小林は自らの言説が絶対的なものでないことを自認し、さらに言えばモノを語るとき、そして「物語」には必ず虚像がつき纏い、虚像を纏うからこそ意味の読み込みと読み違え(不確実性)が存在するのだということを意識的に提示している。

 フィクションから、「読み手がそれぞれの物語や意味を発見していく」という行為そのものは常に変わらないが、発見される「物語や意味」は人それぞれ、さらに言えば時によっても異なる。現実において「信じた/読み込んだ」ことが結果的に失敗をもたらすこともあれば、「騙された/読み違えた」ことが結果的に成功をもたらす事もある。したがって、フィクションの「読み」──各々が虚構から現実へとゆらぎを超えて「意味」を橋渡しすること──にはあらゆる行先が用意され、ただ一つの絶対的な正しさというものは存在しない。

 しかし、それ故に本作はこれまで見てきた通り、この曖昧で危険なフィクションの扱い方に真摯に向き合おうとしている。こうした姿勢に倣い、敢えてこの時代に「社会的に不適切な読み・読ませ」──現実的にそれが負の側面として認識され得るもの──を表現するのであれば、これはまさに「陰謀論」と評して差し支えないだろう。ここに、現代にフィクションを問い直す意義も立ち現れてくる。

 陰謀論とは、主に『ある出来事が何者かの、何らかの策略によって行われていると考えたり、認識したりすること』であるが、過度にグローバル化とインターネット化が進んだ現代において「情報」そのものは、あらゆるところに無数に存在し、同時にその真偽に関わらず、並列に、全て存在する。あらゆる意味が溢れるネットの海において、その意味を自らの手で拾い集め、新たな物語を構築する(現実とは別の自分にとって都合の良い物語を認識すること=陰謀論的解釈)は今や誰もが行うことができるのだ。

 さらに、昨今の新型コロナウイルス感染症とその拡大による人々の物理的な接触機会の減少は、個々人の閉塞的で鬱屈した感情、認識の世界を明らかに拡大させている。社会は既に事実と陰謀の境界を失い、誰もがそれと背中合わせに立っているのである。

 具体例を挙げておこう。2020年アメリカ大統領選をめぐる騒動の中心をなした陰謀論「Qアノン」はこのような問題の最たる事例である。「Qアノン」とはインターネット匿名掲示板「4chan」において「Q」を名乗るものが書き込んだ政治的──専ら裏社会的なものに関する断片的な──メッセージのことであり、大まかに説明すればアメリカ民主党政治家、大企業トップのエリート達が裏から世界を牛耳り、見えないところで様々な悪事を働いているのだという壮大なストーリーのことである。これらは極端な例ではあるが、「Qアノン」という陰謀論を「信じる」人々は確かに存在し、現実に大きな爪痕を残した。そして彼らはこのストーリーを自分だけが知っている唯一の真実・リアルだと考えているのである。

 繰り返すようだが、こうした問題の根をなしているのは、自身の「読み」が絶対的に正しいとする思い込みと、それをそうでないとする反省の余地の無さにある。 フィクションの性質は、先に述べた「読み込み」と「スルー」の両立にこそ宿っており、この繊細な両義性を自覚することが現代を生き抜く上でも重要なスキルの一つである。そして、本作は物語という体を成しながらもそれ自身(物語)を「疑うべき」という態度を示し、──フィクションの側からフィクションの存在を問うということ──疑似的に現実へと接近しようと試みている。その先に浮かび上がるのは京都アニメーションの仕事という現実であり、作品そのものがそれでもなお物語を作り続けるという祈りへと重なっていくのである。


「劇場版少女⭐︎歌劇レヴュースタァライト」の話題性に潜むもの

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 ここまで、主に物語の性質について時代性を鑑みながら論じてきたが、ここからはその原因と現状についてさらに詳しく深掘りしていく。

 2021年6月4日に公開された「劇場版少女⭐︎歌劇レヴュースタァライト」とそれをめぐる周囲の出来事は、現在の人々のフィクションに対する姿勢を如実に反映することとなった。本作はブシロード、ネルケプランニングによるTVアニメ「少女⭐︎歌劇レヴュースタァライト」(2018)、そして再生産総集編「少女⭐︎歌劇レヴュースタァライトロンド・ロンド・ロンド」(2020)に続く、劇場アニメーション作品である。

 本作は、歌劇学校に通う少女たちの物語を軸としているが、テーマが「演じること」であるが故にどこまでがキャラクターたちの「自然」でありどこからが「演技」であるかの境界が明確に引かれない。それこそ(虚実の境目を曖昧にしておくこと)この作品の特異な世界観を立ち上げる最大の魅力なのだが、だからこそ、ここにフィクションとしてのリスクも潜むこととなった。

 2021年上半期映画満足度ランキング(Filmarks調べ)において本作(劇場版)は1位を獲得しているが、前作までの認知度と比べればこれは大きな成果だったと言える。そして本作の知名度を押し上げる要因となったものは様々あるが、特段SNSでの盛り上がりはその割合の多くを占めていた。昨今ではSNSで話題になった作品がそこでさらなる話題を呼び、雪だるま式に売り上げを伸ばしていくことも珍しくはないが、問題は本作が極めてそうした手法に合致した、──消費商品的であり共感を軸とした構成をとる──性質だったということである。

 先にも述べた通り本作は、歌劇・ミュージカルが基となっており、劇場版ではそれぞれのキャラクターが主役となって演じる「舞台」がパート分けされ投じられる。そして、それぞれのパートは元となる劇の構成(様式美)に沿って美しく語られるのだが、これは言い換えれば、パターン化され鑑賞者が消費し易い(分かりやすい)構成となった、閉じた世界が小出しにされているに過ぎない。全体には広義の連続性がなく、断絶した各パート(本作では基本二人で一つの劇を行うが、そこで描かれるのは互いが互いに抱く感情の衝突のみであり、そこに開かれた社会性は存在しない)を繋ぐのは最終パートを成立させる為の仕掛け(過去とそのイメージ)であり、これは断絶を和らげる間──劇場から別の劇場へと向かうクールタイム──にしか成り得ていない。鑑賞者は目の前のレヴューに喝采し、次の瞬間(次のレヴュー)ではそのことをすっかり忘れてまた目の前のレヴューに手を叩いている。

 2020年春頃から、新型コロナウイルスの影響によって噴出した「ファスト映画」問題。巣ごもり需要によって人々のフィクションとの日常的な触れ合いが増加し、──Netflixの躍進やそれに伴う「鬼滅の刃」「呪術廻戦」らのメディア戦略的成功が象徴的だ──物語を「読む」ことよりも結末や要点を「知る」ことを求める人が、その分母に伴い大きくなったことと無関係ではないだろう。本作をこのファスト的な潮流と関連付けるのは些か短略的ではあるが、見逃せない側面があることも指摘しておかねばならない。

 作中では舞台とそこに立つ少女達のことを「一瞬のきらめき」と表現しているが、これはそもそも役者という立場が一度の舞台の上において、演者本来の人格を置き去り、役(キャラクター)に己を捧げることに起因する。少女達は消費者の求めるまま自身の人生を切り売りし、その代償と報酬を受け取っている。さらにこうした一過性は情動との親和性が非常に高い。無論本作はこうした刹那主義的・新自由主義的な自覚の上に成り立っているのだが、視聴者がこれを受け取る際、それが抜け落ちてしまっていることも看過できないのである。

 また、本作はその性質を「ワイルドスクリーンバロック」(フィクションのある一定の性質を表す用語「ワイドスクリーン・バロック」とかけたもの)であると謳っているが、しかしまさにそうした性質によって、先の「読み込み」と「スルー」の問題をも強く発露している。

──時間と空間を手玉にとり、気の狂ったスズメバチのようにブンブン飛びまわる。機知に富み、深遠であると同時に軽薄──ブライアン・W・オールディス『十億年の宴』浅倉久志訳より

 「ワイドスクリーン・バロック」。その定まった定義はないが、今回の劇場版における意味合いは「多種多様なアイディアと引用」、さらにその「混沌へと沈みゆく様」と解して良いだろう。これは、あらゆる情報が存在すると同時に、「あらゆる情報を拾い上げる可能性」と「あらゆる情報を見逃す可能性」を併存させる「読み」の問題へと直結する。本作で唯一全体を貫く「私たちはもう舞台の上」というキーワードは、世界に対する自己の認識、実存を語るものでしかなく、普遍で純粋な問い直しに過ぎない。この陳腐さと深淵さを基盤としていた為に多くの鑑賞者はその表層を覆う情報の海(ワイドスクリーン・バロック的なもの)を上滑りし自己の読解(都合のいいように読むこと)を頼りに本作を絶賛することとなった。

 このように「劇場版少女⭐︎歌劇レヴュースタァライト 」はその性質が時代の価値観に即していたがために、作品の抱える危うさをも無色透明なものにしてしまった。鑑賞者が手放しで作品に高い評価を与えるとき、──もしくはそうした他者の評価に首肯するとき──鑑賞者自身は盲目的であり反省の余地を失っていることに等しく、それに気づくこともできない。 こうした意味で本作とそれを取り巻く現実の関係は大いに興味深いものとなった。


藤本タツキ「ルックバック」とその文責の行方

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 7月19日午前0時。まさに多くの人が過去と向き合っている中で、藤本タツキの「ルックバック」は公開された。

 藤本タツキはこのたった一本の読み切りで、ここまで述べてきた物語と現実の距離感、そして現在というものを痛ましくもありありと打ち出した。ここで改めて本作を語ることはしないが、本稿の主旨でこの作品を素通りすることなど全くできなくなってしまった。

 ここで述べておくべきことは、藤本タツキが作品の発表に伴ってその文責を一身に引き受けようとしたこと、その覚悟についてであろう。本作は公開直後から大きな反響を呼び、賛否両論そう有るべくして飛び交った。しかし彼は明らかにそのフィクションの過敏さを自覚しながらそれを現実へと放ち、作品の現代批評的性格をもってして、現実と物語とそして自分自身と向き合う様を明確に提示した。本作での「なぜ描くのか」という問いは「なぜ生きるのか」という問いに等しく、その答えの出ない根源的な問いを繰り返しながらも「描く」「生きる」姿を捉えることは、それが無意味である事を自覚しながら意味を求め続けること、矛盾を生きるということでもある。こうした所作は言うまでもなく京都アニメーションのそれと軌を一にし、その露出度は違えど「メイドラゴン」の併読書ともなり得るだろう。

 また、ここでは発表後の動向にも触れておかねばならない。本作に賛否両論あったことは先にも述べたが、中でも作中での犯人の表現を巡っては厳しい指摘もあった。問題は、これを受けて「少年ジャンプ+」編集部が表現の修正を行なったことにある。その後、単行本化に伴い再修正がなされているが、フィクションが現実の介入を受け──それが道徳倫理的な理由か、それとも商業的な理由なのかは分からないが──その暴力性になす術を失っていることには変わりない。そして、こうした両者による距離感の探り合いはまさしく現代が直面している「物語と向き合う」問題そのものなのだ。


小林とイルル──あるいは京アニにおける「メイドラゴン」

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 「小林さんちのメイドラゴンS」が最終回に向けて何を語るのか。それはまだ分からないが、既に受け取れるものは多くある。物語とは結末でなくその歩みの過程にこそ真価が宿るものであるし、小林の真摯に彼女らと向き合う態度は何よりも大切なものである。これまで参照した三作品は全て2021年に入ってからのものであり、その時代性は確かに鑑賞者に何らかの視線を投げかけているだろう。

 物語は、軽薄に読むのではなく、かといって穿ちすぎることもない。ただ誠実に受け止めそれと対話するように自分なりの感想を持てば良い。情報溢れるこの時代で上手くフィクションと付き合っていく方法を各々が自分なりに探っていくことは、必ず次の時代の希望を作る。と嘘を残して本稿を閉じたいと思う。


おわりに

 もし、本稿が「何かを言っているようで、何も言っていない」ように見えたのであれば幸いである。これはあくまで「小林さんちのメイドラゴンS」という一話三十分程度の作品のいちセリフから始まった遠回りな旅に過ぎず、たとえ元いた場所に戻ってきたとしても、その旅路こそが物語であり自己批判的な態度そのものであるからだ。願わくば「それでも書く」ことの連鎖が本稿からも続くことを。


引用・参照


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