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村上春樹の小説のタイトルがつくお店に行ってきた!

『もしそば』を思いつくきっかけとなった『ケトル』村上春樹特集の企画記事です。これが自分で書いてて面白くて、文体模写にハマったのでした。

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そのとき、僕はボーイング747のシートに座っていたわけではなく、秋田新幹線「こまち」に乗っていた。やれやれ。なんでこんなことになるのだろう。

今号のケトルの原稿を書き終え、休暇で台湾へ旅行に行っているとき電話がかかってきた。最初、無視しようかとも思った。南国の熱気は今まさに僕の旅行をその休暇的ピークに持ち上げようとしていたからだ。でも僕は電話に出た。編集長からだった。

「村上春樹の小説は「ネーミング」がわりに重要なんだ。(海)ではナカタさんが猫に名前をつけたり、『ねじまき鳥クロニクル』では猫の名前がワタヤノボルからサワラに変わったりする。それには意味がちゃんとある。だから、村上春樹の小説のタイトルがお店の名前になっているところ、全部行ってきてくれないか、追加で」

「よくわからないな」とは言えなかった。村上春樹的世界ではこのようなことはよくあることだ。オーケー、やってやろうじゃないか。そういうふうにして、僕のネーミングをめぐる冒険ははじまった。

秋田駅から男鹿線という単線に乗って約20分、追分駅に降りて僕はタクシーを拾った。

「どこまでいかれますか?」「このあたりに『ノルウェイの森』というホテルがあるんですけど、わかりますか?」「ああ、わかります、このあたりはわりにそのようなホテルが多いですからね」

見かけに騙されないように、とは言わなかった。車はどんどん森のなかに入っていく。

10分ほど走らせると、まるでガンジス川で沐浴する奈良の大仏のようにその建物は僕の前に現れた。想像していたようなビルでなく、戸建の建物が並ぶペンションといったような赴きだった。さっそく支配人の児玉さんに話を聴いた。

「オープンは2008年です。社長が村上春樹さんのノルウェイの森を読んだとき、冒頭のノルウェイの森が機内でかかるシーンがとても印象的だったそうです。すごくヒットした小説ですし、若い人を呼び込みたいという思いを込めて、この名前にしたそうです。そしてじつは社長の名前もワタナベっていうんですよ」

児玉さんは笑顔で話しつづけた。このホテルは東日本大震災の支援をしていたり、誕生日のサプライズ企画をしていたりと、とても経営努力をしている素敵なホテルだった。

「でもはるばる大変でしたね」雪かき仕事です。誰かがやらなくちゃいけないんです、とは言わなかった。それにしても『アフターダーク』ではアルファヴィルというホテルがアイロニーのない世界の比喩になっているけど、外の世界は皮肉だらけだな。やれやれ。

東京に戻って僕は1875回目の渋谷に向かった。109を右、坂を登って東急百貨店の向かいにあるバーに入った。名前は「国境の南」。

「ジャズのスタンダード・ナンバーからとりました。村上春樹さんの小説からとったんじゃないんです。ごめんね。でも『国境の南、太陽の西』は読みましたよ。あの小説に出てくるバーはわりとオーセンティックだから、うちとはちょっと違うわね」

と店主の波田野さん。

『国境の南』はゴキゲンなミュージック・バー。ジャズに限らず、ワールドミュージック全般がかかる。ときには演奏が始まることもあるという。

「じつはこの店がオープンする前、この場所には『ロビンズ・ネスト』というお店があったんです」

『ロビンズ・ネスト』は『国境の南、太陽の西』で僕が経営するジャズ・バーの名前。

「前の店主は村上さんが大好きでそこからとったっていってました。だから次のお店の名前が『国境の南』だって聞いて、それも村上さん?って聞かれたんです」

最後に僕は志村坂上に向かった。シムラサカウエ、と口に出して言ってみたが状況は何も変わらなかった。

今の気持ちを一言で表すならこういうことだった。

そろそろこの文体やめたい。

駅から徒歩5分。板橋の閑静な住宅街のマンションの1階にそのバー『アフターダーク』はあった。

「うちはオープンが2000年なので、村上春樹さんの小説より先なんですよ。ちょうど『ビバリーヒルズ青春白書』というドラマが流行っていて、PEACH-PITというバーの裏に『アフターダーク』という主人公たちが代わり代わりに店主をするミュージック・クラブがあったんです。その雰囲気が凄くよくて、そんな店にしたいという思いを込めてこの名前にしました」

とても賑やかなバーで、その日も常連さんがたくさんいた。

「でも、このバー、村上春樹好きの常連さんに井戸バーって呼ばれてるんです。井戸なうってつぶやいてますよ」

井戸バー。思索したり、別世界へ連れて行ってくれるバー。村上春樹好きにはうってつけのバーだ。

これで、話は終わるのだが、もちろん後日談はある。この原稿の締切は、この取材の1日後、つまり明日だ。

僕はどこでもない場所でこの原稿のオチを考えている。おもむろにケイタイを取り出し、編集長あてのボタンを見つめた。一言目はもちろんこうだ。

「ハッピー・バースデイ、そして ホワイト・クリスマス」

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