私の母はスーパーウーマンだった。 母として、妻として、娘として、そしてひとりの女性として完璧すぎるほどなんでもできた。 歳を重ねても探究心が衰えることはなく新しいものにも挑戦する。 明るく社交的で友人も多く、娘の私が呆れるほどにしょっちゅう食べ歩いたり旅行したりしていた。 子どもたちが自立した後は自分の母親の介護に明け暮れていたので、介護から解放されて自分の時間を謳歌していたのであろう。 それでもとにかくスーパーウーマンなので、妻業、母業も抜かりない。 定年退職後
約2か月の入院生活を経て、ようやく退院の日が来た。 私が父の顔を見るのも、約2か月振りだ。 久しぶりに会う父は、とても元気がなかった。 車いすに固定され 足はパンパンにむくみ 人としての自由を奪われていた。 病院内でうろうろされては困るとの事情はよくわかる。 よくわかるが、あまりに切ない姿だった。 おしゃべりだった父が ほとんどしゃべらない。 目もトロンとしている。 気性の荒いところのあった父が 穏やかすぎるくらい穏やかなのが かえって切ない。 退院手続きを終
2022年2月。 父の様子がおかしい、と小規模多機能から電話があった。 いつもはご飯をペロリと食べるのに 全く食べたがらない。 水も飲みたがらない。 とのこと。 病院に連れて行ってほしかったが、 小規模多機能には、その権利がない。 対応できる家族は私のみなのだが タイミング悪く、私はコロナウイルスに感染しており しばらくは外出ができない状況にあった。 しかし、最初の連絡から1日経っても 様子がおかしいとのことだったので 怖くなり、救急車を呼ぶことにした。 そして
2020年、サービス付き高齢者住宅から自宅に戻った父。 その時点で、アルツハイマー型認知症、中度との診断だった。 ひとりでご飯を作ることはもちろんできない。 家の中は危険がいっぱいだ。 とはいえ、本人が 「のたれ死んでもいいからここに住む!」 とすごい剣幕で言うのを、これ以上押さえることはできなかった。 そんな中私にできた精一杯は、 小規模多機能さんに父をお願いすることだった。 毎日通いで、父の体調や投薬の管理、 掃除や洗濯等、日常生活に必要なことをひとまとめで
母のことを書いていたら辛くなってしまい、書くことを続行できなくなった。 2015年に大腸がんステージ3を宣告された母。 治療を受け、体調がきついときも多々ありながら 元気な時は娘の私や孫のところにすぐ顔を出してくれて イベントごとには今までと変わらず参加してくれていた。 友人たちとの旅行や外食も、 それまでよりかはペースは落ちたけれども 結構楽しんでいた。 そんな母だが、 2018年の4月、これ以上の治療は困難とのことで 全ての治療を終了した。 そのひと月後、まだそ
大腸がんステージ3の申告を受け、母の抗がん剤治療が始まった。 抗がん剤治療というのは飲んでみないことには効く効かない、合う合わないがわからない。 合わないときにはかなり具合が悪くなったりするから厄介なものだ。 薬が合わないときはあまり動けず、家で休むことが増えた。 髪も抜け落ちる期間があり、ウィッグのお世話にもなった。 それでも調子が良い時も多かったので、相変わらず孫の行事には顔を出してくれたし、車を飛ばして遊びにきてくれたりした。 1年が過ぎた。 大変なことは
大腸がん手術の検査結果を聞きに、父と2人で診察室に入った。 がんのステージ、すなわち進行具合を聞く大切な場だ。 息を飲んで医師の言葉を待った。 それは、予期しないものだった。 「検査の結果、ステージ3です。」 各ステージについては、既に何回も調べていた。 ステージ2まではそこそこ生存率が高いけれど、ステージ3になるとがぐと低くなるのだ。 手術前はステージ1とか言ってて、今更何を言ってるんだ。 しかも、腹膜播種は取りきれないとかわけのわからないことを言っている。 や