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ピーター・ドイグ展 @ 東京国立近代美術館 鑑賞メモ

当初は、予約制だったけれど、それは解除されたみたい。混雑しない程度の制限は行っているみたいだけど、予約無しでも鑑賞することができる。

壁面を覆いつくすかのような巨大な作品。絵本のような印象でもあるが、見ていると吸い込まれていくかのような感覚がある。絵の大きさが、視線を動かし、見ていく順序によって、鑑賞者それぞれの物語が進行していくかのようである。

ニコニコ美術館、Eテレでのインタビューなども見ていたが、やはり、自分の目でスケール感を含めた体験をすることが、大事だと思った。本物を見る。ベンヤミンはアウラと表現したけれど、作品とその場で時間を共有することが、ひとつの鑑賞体験になることは間違いない。自分と作品との距離、時間を共有するということか。

カナダに戻ってから描いた作品、ボートのモチーフ、自然が、記憶、認識の中で形づくられていく。よくよく見てみてば、絵具の塊が置いてあるだけ、全体を見渡してみれば、それが人にも雪にも見える。絵画の中に、そうした人の記憶と視覚との交差を試すかのような仕掛けが入っている。

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日本のスキー場の広告を参照しながら描いた作品《スキージャケット》。写真でみていたときと印象が異なった。こんなに暖色系というか、赤が強調されていたっけかな。

ピーター・ドイグについては、いろいろな人が、いろいろなテキストを書いているし、それをなぞるようなことをしても面白くない。とはいえ、三層に区切った、吸い込まれていくような画面の構成、視覚と記憶の混乱を誘うようなモチーフ、絵本のようでいて、引き込まれていくと、ホラーのような感覚。絵画で固定化されているにも関わらず、ライブ感というか、ナラティブがあった。

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《ガストホーフ・ツァ・ムルデンタールシュペレ》

どういうわけか、これは家の絵だと認識していた。実際に見てみて、何で家だと思ったのか、どういうわけか思い出せない。ダムを描いた右手側を外塀と認識し、住人が出かける所と勘違いしていたようである。それにしても、左手側の水は、なんと認識していたのだろうか。

そうした内省を、作品毎に繰り返し、最後の映画ポスターの描画のあたりには、すっかりアーティストの世界に浸り込んでいたような気がする。


アート・バーゼルのオンライン・ビューイング・ルーム開設にあわせて、いくつか流れてきたニュースを読んで考えたことをnoteに書いた。自分の目で見ていない作品を、オンラインで見ただけで買うということ。金額によっては難しいということを、売り手側の様々な人が指摘していた。リアルか、ネットかの二項対立もしくは境界を設けるというのは、もう古臭い考え方。コロナ禍以前はリアル+ネットという考え方だったけれど、これからは、リアル×ネットという考え方にしていかなければならない。事実、ザ・ハンプトンズのギャラリストは、アート・バーゼルという仮想的なスイスに展示しているとするオンライン・ビューイング・ルーム、それをイースト・ハンプトンズに展示して、高額な作品を売った。今後、スペース(空間)の使い方、捉え方は変化していくものと思われるが、どちらかに取って代わられるわけではない。




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