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ウィー・ウィル・ロック・ユー・自転車

いつもの帰り道の夕暮れのなかを、自転車で漕いでゆく。

お気に入りの銀のママチャリのチェーンはさびはじめていて、ペダルに足を踏み込むたび、チェーンがこすれて音がたつ。

ふだんならあたりまえになっていて気にならないのに、今日はほんとうに嫌なことがあって、それを思い出したくもないし忘れてしまえたら楽なのだけど、そういうことに限って何度も、思い出したくない、という気持ちなんて些細なものだとでも言わんばかりに何度も、思い出されてしまって、なにか自分が間違っているかのような、自分がそういう気持ちを持つことが間違っているような、とにかく誰かに責められているという感覚だけは確かに感じていて、それは単に自分で自分のことを責めているというだけのことだったかもしれないが、それにしても、なんてままならないんだ、自分のことだというのに、などと思いながら自転車を漕いでいたのだった。

ふと、溜まっていく考えごとのすき間からチェーンのこすれる音がしのびこんできて、ガチャガチャガチャ、ガチャガチャガチャ、と一定のペースで鳴った。

それがあのクイーンの「ウィー・ウィル・ロック・ユー」の印象的なフレーズのように聞こえてきて、からっぽの帰り道でこっそりと、あやふやな歌詞をくちずさむ。

そうしていると、なにかここからすこんと飛びだしたような、ここから距離をもったような気がして、夕焼けが大きくみえた。

ひとつの宇宙をあまねく照らし出す光のすべてが、世界をオレンジにくまなく浮かび上がらせた。
そしてそれをみた。
もしくは、くちずさんだ。

それがいつだったのかはわからない。

いま自宅から最寄駅まで乗っている自転車は緑のスポーツタイプで、シャープな見た目がとても気に入っている。
銀のママチャリなんて持っていたかどうか、いまではパッと思い出されないくらいには覚えていない。

いまの自転車のチェーンはすうすうとなめらかにまわるけれども、夕焼けに照らされたまちをみたことは覚えているし、「ウィー・ウィル・ロック・ユー」はいまでもくちずさめる。

まだちゃんと歌詞を覚えてはいなくて、あやふやなままで、ただくちずさむとき、夕暮れの帰り道の自分がぼんやりと浮かんでくるようで、それでもなお、記憶の解像度じたいはそのままだから、こうやってくちずさむ「ウィー・ウィル・ロック・ユー」のほうが、あのときにずっと近くて、あのときの自分のてざわりがして、あのときの自分がそこに感じられるということは、いまの自分だって、きっと、


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