ポルカロープ
詩のようなものをまとめています。これはほんとうに詩なのだろうか
文学フリマ東京のあとがきです。 ブースに足を運んでくださったみなさん、Twitterやnoteを見てくださっているみなさん、本当にありがとうございました。
ポルカロープはこんなのを書いてます
駅と駅の間 不安で歩いてた 冷たい冬の夜の思い出 もうなにもしなくてもいいもうなにも今日からなにもしなくてもいい 知らない言葉で飾られているいまごろの君を思うと泣ける なんかもう 頭が軽くていやになる 尻は重くて引きずっている 昨日には今日の昨日に明日くる今日が今日だときづいてしまって
いなくなった猫 つかのまのきまぐれに カップで飲んだ茶色い紅茶 ひかり ひとつ ふたつ すぎゆく窓の外 静かの海を船はゆきけり 輪切りのレモンを詰めた瓶に蜂蜜のしたたり満つまでの時間 花泥棒 残るカーテンひるがえる またうつくしい うなじだけみた 遠くまで みわたすほどの青空だ そうか これが新しい孤独
リビングの がらんどうに 生き死にの 絵を飾る ソファの背 さっきまで誰かが いたように くぼむ ダイニングは なまぐさく 刃こぼれして 一片の うろこ 包丁の なまくらの しみついた 赤
これを書いているのは2019/12/31/0:21。つまり、あと23:39で2019とはバイバイだ。普段日付とか年なんて気したことは無かったけど、こういう書き方をすると2019年が急にもう絶対に会えないくらい遠くに行ってしまう友達みたいに思えてくる。逆に、今の時代もう絶対に会えない距離なんてほぼないから、時間の不可逆性を強く感じる、という言い方もできる。 先程久しぶりの友人と今年のカラオケ納めと飲み納めをしてきた。そこで今年の振り返りみたいなことを、年に似合わずやってカッコ
瀬戸内アートブックフェアも終わり、東京に戻ろうというところです。 今回のイベント、旅は、色々な意味で実りの多いものとなりました。それもこれも、イベントを主催、運営下さったスタッフさん方や、いつも応援してくださる皆様、今回気に止めて、本を手に取ってくれた皆様、何より、このイベントに行こうと言ってくれたもう片割れに、本当に感謝です。 イラスト、デザイン担当の僕としては、ポストカードや原画の多くが皆様の手元に残る形となったので、自分の作ったものが、人の生活の一部となることに、改
ここには少なくとも二つの世界が互いに反発し合わない形で並存することが可能であるが、そうやって異なる二つ以上の世界が存在しおおせることはめったにないといっていい。「調和」という言葉を使うこと自体はたやすいが、それが真の意味で「調和」しているのかどうかは「調和」から離れた位置でしか確かめることはできないということだけがはっきりしていて、ある意味で「調和」という言葉こそが最大の不和であり暴力でもありうることを覚えておくのは決して無駄なことではない。 こんなところで哲学か、と落胆す
いまとおくに夕暮れがみえることは 朝焼けがみえることだと 感じなくてはならない こんなにもうつくしく おなかがすいている と 詩人になって書くとき うつくしいはくるしいでもあり 空腹は飢餓でもあることを 感じもらしてはならない よわい目でもくまなくこらすこと つよい目も皿のようにみがくこと これを忘れてはならない
いつもの帰り道の夕暮れのなかを、自転車で漕いでゆく。 お気に入りの銀のママチャリのチェーンはさびはじめていて、ペダルに足を踏み込むたび、チェーンがこすれて音がたつ。 ふだんならあたりまえになっていて気にならないのに、今日はほんとうに嫌なことがあって、それを思い出したくもないし忘れてしまえたら楽なのだけど、そういうことに限って何度も、思い出したくない、という気持ちなんて些細なものだとでも言わんばかりに何度も、思い出されてしまって、なにか自分が間違っているかのような、自分がそ
どうしてことばがあるのかを、考えてみよう。 こんなことをこれまでに何人もの誰かが言ったかはわからないけれどここにいる、ここにいてしまっている私が言うことにこそ意味がある、というか意味はなくていいんだけど、私たちはそういうことについて、意味がある、ということばを使う。 私とは誰のことだっけ。私たちとは誰のことだっけ。 無自覚に書いているという指摘を避けるためこうして書いてみる。 たいへん虚しい。 全ては土に還るのだからと言っても、この世界への執着が消えるわけではなく、目の
どこに見えてたその先は きっとどこかに飛んでって 私の届く手の中に わたしはどこにもいやしない 私とわたしはいつかまた 重なることもあるでしょう その私たちに架かるのは 橋でも虹でもないわけで 私がもし目を伏せたなら わたしは私を殺すでしょう だから私はいつだって 鏡を割らずにいられない 水面に映る太陽は いくつもいくつも増えていき 私の眼を焼き尽くす そんなことすら知らないで わたしは私を見つめてた 月の眼で見つめてた いつしか世界はひっくり返り 私もわたしもなくな
ウミネコという鳥を知っているだろうか。カモメとよく間違えられるらしいが、嘴の先の色や、尾先の黒い帯が特徴の鳥である。鳴き声が猫に似ているとのことで、ウミネコと名づけられたらしいが、どうにも似てるとは思えない。 彼らの目は、いい意味で死んでいる。いつ見ても、輝きのない目をしている。それが私には、とても美しく感じられる。どこまでも死を追い詰めるような、必ずその瞬間を抉り出すような嘴で、空を飛ぶのである。白い死神がどんな姿をしているかと問われれば、私は初めに彼らの名をあげるだ
文学フリマが終わって、今度は長い話を書きたいと思う。 しかし、もちろん書くこと以外の生活もまた続いていて、日々のなかになじんで暮らしている。 文学フリマの直前は準備にかかりきりで、他のことに手が回っていなかったから、イベントが終わって酒を飲み、少し酔っぱらうなどして、ここからまた頑張っていこうと気持ちを新たにした。 しかしそれですぐに生活が良くなる、他のやることがさくさく進むというわけでもなく、心機一転した翌日から、ごたごたと厄介がうちつづき、先ほども居眠りして電車を乗り過
世界にはたくさんの人がいる、ということを言葉では理解したつもりでも、この世界には本当にたくさんの人がいて、言葉の上でするような簡潔な理解はできそうにない。 今日参加した文学フリマ東京で、それを改めて認識した。 書き手と読み手、広いホールの中をたくさんの人が行き交って、それぞれの会話や動作からたつ小さな音が会場の空気の中を満たしていた。 ありがたいことに自分の書いた本にたくさんの人が目を止め、買っていただけることまであった。 しかし、その誰もが、その場所でそうして出会うの
物語が終わったあとは、いつもちょっとした安堵と、これから始まる明日を迎えてしまうことに不安を感じてしまう。物語が続けば、明日は今日の続きでしかない今日だったのに。 眠り続けることは出来ないし、起き続けることも出来ない。いつか今日は明日に変わり、今日は昨日に消える。そんな世界が、またやってくる。
なんとなく乗った電車がたまたま止まった駅でなんとなく降りる。 住んでいるアパートの最寄りから昼過ぎに乗った電車の中でいつのまにか眠りに落ちてしまって、気づいた時に停車していた大きな乗換駅のホームにふらりと出たことは覚えているがその後どうして乗ったこともないその路線の改札を通ってガラガラに空いている各駅停車のシートに腰掛けたのか、それから何駅もの間ぼんやりと向かいの角の丸い大きな窓の薄曇りの空を見ていて不意にその駅で降りた流れも含めて何一つ思い出せないで、ただ銀色に黄色のライ
滝口悠生という人の書く話がとても好きで、どれもこれも捨てがたいが、最近ひさびさに読み直した『高架線』(講談社)という本について書いてみたい。 ぼんやり読んでもじゅうぶんに楽しい本で、はじめて読んだときは、なんだかおもしろい話だな、くらいのことを思っていた。 読み返してみるのにあたって、じっくりと自分に照らし合わせて読んでみると、また新しい印象があった。 夏目漱石の「こころ」みたいな生々しさやずしりと重いものはないけれど、人間のことが書いてある、と感じてしまうような本だった。