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ネームレス

ハサミがないので定規でなんでもまっすぐ切った。
雑誌の気になる記事もチラシのクーポンも。
長い介護休暇をもらうため書類に貼った診断書のコピーも、ぜんぶ。
ぜんぶ定規で切った。
だからいま、遠くにみえる水平線は定規で切ったみたいにまっすぐで、これも日常なんだと安心する。
目の前の地面は風がふきつけるせいかぼこぼこで、海に向かって途中まで急に、そしてだんだんなだらかに傾斜して砂浜へ、海へ至る。
私に重さを全部預けて、夫は車椅子で相変わらず何も言わず、というか何も言えないし喋れない。
彼の口はいまやドロみたいな粥と水を注がれるだけのチューブだ。
注ぐのは私だ。

なぜこんなところに来たのか。海だなんて、かなり遠くまで来たようだ。
眠気が支配していて思い出せない。最近いつ寝たっけ。夜明け前、暗い空の下、海は大きくてうねっている。何も浮かばない。海と空の間の大きな隙間を大気が動く。昨日は何をしていたっけ、それでは、一昨日は、その、前は。粥と水を注ぎ、体重をささえ、拭き、取り替え、ゴミをまとめ、そういう流れだけが連なっているばかりで、どの日も見分けがつかなかった。夫の身体が重くなるたび、一日一日は軽くなる。日めくりに終わりはないようだった。

それとも、終わらせるために来たのだったか。

ひとごとみたいに遠くで、波の音が響いていた。その繰り返しが嫌だった。
がくん、と手ごたえがして、全身が一気に斜面に引っ張られる。車椅子が傾いたのだ。車輪は少しずつだが地面を噛んでいる。腕がぴんと緊張する。突っ張る足の裏が熱い。引きずられる。胸が詰まって息が出ない。噛んだ歯が擦れる。
何度手を離そうと思ったことか。

息を止めて、一気に引き上げる。そのまま後ろに倒れこんだ。
力が抜けた。手を離せなかった。考えはなかった。

その時だった。
ごぼ、と何かがこぼれる音がした。夫の口だ。
痺れた腕を伸ばしてマフラーを首もとまで下げてやる。
ごぼ、とまた同じ音が響いた。
ごぼ、と音。

それはどんな言葉にも聞こえなかったから、どんな言葉にでも聞こえた。
夫の乾いた皮膚が、少し明るくなった。
振り返ると、水平線に光があった。
太陽はものすごい熱と光をもっているから、水平線は、そのせいで揺らいでみえた。


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