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ことばのある毎日がまたつづく

どうしてことばがあるのかを、考えてみよう。

こんなことをこれまでに何人もの誰かが言ったかはわからないけれどここにいる、ここにいてしまっている私が言うことにこそ意味がある、というか意味はなくていいんだけど、私たちはそういうことについて、意味がある、ということばを使う。

私とは誰のことだっけ。私たちとは誰のことだっけ。
無自覚に書いているという指摘を避けるためこうして書いてみる。
たいへん虚しい。

全ては土に還るのだからと言っても、この世界への執着が消えるわけではなく、目の前のことがどうでもよくなることもなく、おおむね全てがどうでもよくなる方向へ向かって動いているのにぐるぐるぐるぐる毎日毎日同じキーを叩く叩く叩く。
分厚い核シェルターの蓋をひねって締めるように圧力が加わっていやでもシェルター内部の圧力は変わらないのかもしれないというあたりまでしか想像力はのびないのだけどとにかくそのようなイメージで頭の中が日々ぎゅうぎゅうになっていって過敏になる自意識の像を彫ることになる。

実体もなく掴めないものの手触りをつかもうとして自分の中に手を突っ込んでみるのは気分が悪くて、それゆえにむしろ何かを成し遂げているという感覚が嫌に増してきて、それにはまっている自分がいて、それに溺れている自分がいた。

私はどこからでもどんな場所からでも逃れることができるし逃れ続けることができるというのは事実なようでいて実はそうでもない。
私は私というポジションからだけは逃れることができなくて、いうまでもなく私のポジションとは生でありそこから逃れることは死だ。
こんなことはきっと誰もが言ってきたことだし誰もが思っていることであって、あなたは一人でいる時孤独を感じるでしょう、と訳知り顔で言われて素直に救われるような生きやすさを私たちはもう持ってはいない。

私とは誰だっけ。私たちとは誰だっけ。

正体をいちいち確認する必要のありそうな私が、時折激情に駆られて散歩に出かけるのは、そうして次々と居場所を変えながら実は自分という場所からは逃れられないことを無様にさらしているだけではなかったのだろうか。
自らへの怒りとも憐れみともつかないやり場のない焦燥を抱えながら歩き回っていたのは滑稽も滑稽、何一つ逃れることも発散することもなく、待っていたのは新たな焦燥の更新だ、などと言ってみると何か格好のついたような気もするが、実はそんなもの「不安」や「いらいら」などと言ってしまって差し支えないはずだ、ほんらい。

不安やいらいらが毎日募っていく、と言ってしまえばいいのか。

いや、募る、ということばさえ格好のついているようであれば、普段口に出すこともないのなら、単純にこう言い切ってしまっていい。

毎日不安で、いらいらする。

世界にひとりごとしかないのなら、ことばなど必要ないはずなのだ。

こうして二重に否定してみてこんがらがるのに疲れるくらいなら、こう言ってしまおう。

いま、世界にはひとりごとではないものがあるので、ことばが必要だ。

それは聞かれることばで、読まれることばで、ということはなにより、話されることばで、書かれることばだ。

かけられることばで、かけることばだ。

ひとりでことばを繰り出そうとしても無力だった。
ひとりで喉の奥に手を突っ込んで、ひとりで削り出したことばは、ほんとうに必要なことばではなかった。

それは格好のついたひとりごとだった。
格好をつけたら、襟が立って、角が立った。
きっと、そういうことではなかった。

単純なことばを持とう。

話されることばは聞かれることばで、書かれることばは読まれることばで、かけることばはかけられることばだ。

聞かれるための余白を、読まれるための余白を、かけられるための余白を、持とう。

こんなことは私以外には自明のことなのかもしれないと思いながら、それでもどこかで、私は読まれることを祈っている。そしてはんたいに、誰かのことばを読むことを祈っている。

私とは誰か、と問われたら、こう答えるのがさしあたりいいと思う。

その答えを、一緒にことばにしませんか。


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