見出し画像

誰かの影

なんとなく乗った電車がたまたま止まった駅でなんとなく降りる。

住んでいるアパートの最寄りから昼過ぎに乗った電車の中でいつのまにか眠りに落ちてしまって、気づいた時に停車していた大きな乗換駅のホームにふらりと出たことは覚えているがその後どうして乗ったこともないその路線の改札を通ってガラガラに空いている各駅停車のシートに腰掛けたのか、それから何駅もの間ぼんやりと向かいの角の丸い大きな窓の薄曇りの空を見ていて不意にその駅で降りた流れも含めて何一つ思い出せないで、ただ銀色に黄色のラインの入った電車が轟音でホームをするりと抜けていって、太陽を反射する車体の輝きと、線路を軋ませてかすかに残る意味のとれない唸りだけが残って、乗越し精算を済ませ自動改札を通る自分の耳にその唸り声はまだ低く暗く響いていてどこか胸が騒いだ。

高架になっているため外に出るには階段を降りる必要があったが、その階段が不気味なほどひらけた改札口の隅にあり、横長の路線図と五台の券売機がならんでいる他は売店もなく、ただ十数メートル四方の黒いタイル張りのスペースが改札と階段の間にあった。もしかするとこの駅はふだん通勤客や学生で溢れるのではないかと一瞬思った。中学からエスカレータ式で通っている大学のある駅も改札口はとても広くて、朝や夕方は学生たちで溢れるのだが、それにしても店やら自動販売機やらロッカーやらがあって人がいなくてももう少し明るい印象になるとは思うのだが、この駅はそうではなかった。

ガムのつくる黒いシミが多く残る灰色のタイルの階段を一段一段見ながら降りた。緑一色の植え込みを取り囲むロータリーには居酒屋、ファストフード、不動産屋と、各駅停車しか止まらない私鉄沿線の駅というのはだいたいこんなもの、という印象しか与えない、しかも日曜の午後とあって夜になると光りそうな看板や照明の類は全てくすんだ色に沈んで、一層さびれた感じを醸していた。どこかから生ごみのような湿っぽい匂いがする。

どうしてこんな駅で降りたんだろう、と思ってみてはじめて、そもそも電車に乗る用事などなかったということを思い出す。適当に終わらせたレポートの課題を出すためだけに明日大学に行く、今日の午後は何もしないでただうつらうつらしていればよかった。脈絡がついていない。気づいたらコートを着て最寄り駅に立っていて、次に気づいたのが乗換駅で、そして今も気づいたらこんなよくわからないところにいて、しかもそこから歩き出して当てもなくどこかへ行こうとしている。線路に沿ってまっすぐに伸びている道の遠くの方に木々が密集して生えているのが見える、と思ってそこに向かおうと歩き始めると少し前に停めてあったバンから場違いにちゃんとしたスーツの男が飛び出してきて、すみません、と言ってきて面倒だったので歩くスピードをゆるめずに、はい、と答えると、あなたは全てがわかっていますか、全てがわかりたくありませんか、と早口で言って、わかりたいでしょう、すべてです、と言葉を継いできたので得体が知れずそのくせ厄介なことだけははっきりわかったので目を伏せたまま歩調を早めると、全て……、とだけ言って諦めたらしく、バンの方へ戻ってしまった。

世の中にはいろんな人がいるよな、と月並みな言葉が浮かんで、それにしても自分だってたった今よくわからない状況にいる、と思い直して目線をあげると木々のてっぺんはさっきからあまり近づいたようには思えないほど遠くに見えた。

線路脇にあるようだった遠くの木々は、歩いてどんどん近づくにつれて、線路からは離れて、しかも一向に距離が近づいている感じがしなかった。それはおそらく、高架の線路が駅を出てすぐに大きくカーブをしていて、歩いてきた線路脇の道はそのカーブとは反対の方に向かってゆるやかにしなっているような感じで、線路と道がどんどん離れていっているためらしかったが、それでもなおあの木々がいつまでたっても遠くに見えるのは不自然でしかなく、そしてもっと言えば、なぜそうまでして自分があのてっぺんしか見えていない木々を目指しているのかが本当にわからなかったが、それでも足は止まらず、ただ歩き続けていた。

はじめ線路脇にあった道だったがもう見渡しても線路は見えず、ごう、と電車の行く音が聞こえてきたのだが、そういえば駅のホームからずっと耳の底に残っていた電車の唸る音が今もしていた。そして道はもう一本の少し幅の広い道とぶつかったところで丁字路になっていて、どちらかに曲がるしかなかった。もはやここまでくれば足は迷わず一方を選んで、すぐにまた曲がって脇道に入って、緑色の木々を遠くに眺めながら、まっすぐ行く道が途切れるたび、とにかく歩くスピードは変えずに、頭の中は悩むばかりなのだけど曲がって、曲がって、曲がり続けた。

住宅街の道で曲がろうとしたとき、その角の向こうから「あ」と「お」の間のような低い濁った声が響いた。誰かいるのかと驚きながら体はもう曲がり角の向こうにいたけれど、そこには誰もいなくて、周りは一軒家がひっそりと立ち並んでいるばかりでどこからも声がせず、と思ったらどこかで犬が鳴いたが、それも家の中からしたような音で、こもって聞こえたが、その前の声は角を曲がってすぐのところで発されたとしか思えないような生々しい距離感で聞こえた。気がついたら思わず立ち止まってしまっていた。後味の悪い気持ちの悪い感じを覚えながら、また歩き始めたが、そのあとも何度か、忘れたようなタイミングでその声は聞こえて、何度も聞いているうちにその声の特徴みたいなものがはっきりしてきた。なにか喉を思い切り開いていきんで、どす黒くぶよぶよな声の塊を吐き出しているみたいな感じだった。音はとにかく濁っていて、何度も聞くたび息がつまるような感じでやみくもに鼓動が早くなった。どうしてこんな声に脅かされてまで歩かなくてはならないのか、心臓が縮んで濃い血が脳で滞流して苦しく、泣きそうになっていた。それでもとにかく歩くほかなかった。曲がり角があれば曲がるしかなかった。緑に輝く木々だけを見つめながら。

ようやく住宅街を抜けると、ひらけた道に出た。片側にぽつぽつと個人商店が並んでいるがだいたい閉まっていて、くすんで茶色いひびの入った外壁が妙に色褪せて見えた。向こうから自転車に乗って三人、茶髪の大人と学生服を着た子供、半袖の小さな子供が通り過ぎていった。みな前を向いて、お互いに何か話したりはしていなかった。その人たちを目で追ってから前を向いてみると、さっきよりも木々の密集は近づいているようで、というかゆるくカーブしているこの道の先にあるようだった。灰色のトタンで覆われた弁当箱みたいな倉庫の向こうから木々のてっぺんがのぞいていた。

ふと目線を移すと、自分の十メートル前くらいのところにおじいさんとおばあさんが歩いていた。おじいさんは後ろから見ても喪服を着ているのだとわかって、手首には数珠のようなものがのぞいているのだが、おばあさんの方はいたって普通の洋服を着ていて、緑のカーディガンに赤や黄の色がちらちらと光る黒い地の帽子をかぶっていた。二人は小股で歩くのがあまり早くないように見えるのだが、不思議と追いつけなくて、ときおり顔をお互いの方に向けながら何かを伝えているようだったが、何かを話しているような声は何もしなかった。
ぼんやりとひらけた道が続いていて、倉庫とその向こうの木々はぐんぐんと近づいてきた。

そしてとうとう、倉庫の目の前まできて、ようやくだ、と思って息をついた。そうすると、するりと肩から力が消えて、さっきの住宅街の声に怯えていた時から知らずしらず体がこわばっていたのだと気がついた。おじいさんとおばあさんはその倉庫の前の曲がり角で曲がって、すでに姿はなかった。

平べったい倉庫の前を越えると、百メートルはあろうかという背が高くて枝の大きく広がった木の陰にすっぽりとおさまって、道は暗がりになっていた。そして、そこに大きな門があった。
木々は、寺の境内に生えているのだった。

肩を怒らせた荘厳な寺の門をくぐると、種類のわからない大きな木が境内を囲むように四方から枝を伸ばしていて、境内はさらに翳っていた。ここが自分の目指していたところなのか、と思ってここに何があるのだろうか、答えが漠然としていて混乱して焦るような気持ちがあったにはあったが、とにかくここが、目指していたところなのだ、という感じが疑いなくあって、それが木々の作り出す湿って暗い雰囲気と相まって自然と落ち着いた心地になった。

いかめしくて暗い本堂の前までゆっくりと歩いて、賽銭箱の前までの石段を一歩一歩と確かめるように登る。一歩離れたところから十円玉を投げ入れて、静かに手を合わせて、ゆっくりと息を吐いた。
こうして悩みながら歩き続けることができますように、と心の中で唱えた。

石段を降りて、参道の脇にある石碑などを眺めていると、木々の間に一本、敷石の道が続いているのに気がついた。

考えもなく、気づけばその道を歩き出していた。ここにきて、体は確信に近い何かを感じていたようだったが、どこか落ち着いていて、答えを急ぐような焦りやじれったさは全くなかった。木立の中を、すなわちさっきまで眺めて歩いていた木々の中を、歩いた。足の裏で、敷石の凹凸や落ち葉の崩れる感触が冴えていた。

光だ。

それを最初に感じたのは目ではなく、顔面の皮膚だったかもしれない。

光が、木立の向こうに確固としてあった。

不意に、木立が途切れた。

そこには、この寺のものなのだろう、たくさんの墓石が並んでいて、その向こう、大きくひらけた空の真ん中あたりに、これから沈んでいこうとする午後の太陽が薄い雲を透かして白く、そして圧倒的に輝いていた。

あまりにも強烈な光だった。まともに目を向けてはいられないと思った。

それなのに、目がしっかりと太陽を捉えて離さなかった。見るしかないのだと思った。じっと、目がくらみそうになるのをこらえて、じっと見た。

そのうちに太陽は小刻みに揺れ、震えて、その真っ白な太陽の中心に一回り小さな緑色の縁が見えたが、それは自分の目が写している像だったかもしれないが、とにかく見つめ続けると太陽は揺れて、震えた。

不意に、目の前の墓の中に友人の墓があったのではないかと思った。

まばらにしか来ない年賀状に混じって、今年の正月、その薄青い葉書は届いて、そこに乾いた明朝体で友人が死んだ旨が書かれていた。宛名面の送り主の名前はその友人の名前になっていたのにそれからしばらくして気がついた。
通っている大学の付属中学の頃からの付き合いでもともとよく遊んでいたのだったが、外部進学で別の大学に通い始めてから友人は変わってしまった。何があったのかはわからなかったが、話をしていると頻繁にため息をつくようになった。自分だけしか気づいていなかったのではないか、と思うほどに些細な変化だったが、その変化は確かにあった。けれどもそこに突っ込むのをためらっていた。そこは周到に隠された真っ暗な闇が潜んでいるように思われた。

友人と最後にあったのは去年の冬のことで、居酒屋で酒を飲んでいたのだが、そのとき、友人は店を出た途端、もたれかかってきてそのまま道に胃の中身を吐いた。「う」と「わ」が混じってくぐもった呻き声が、白いような黄色いような吐瀉物と一緒に吐き出された。目にしみるような酸性の湿った匂いが立ち上った。そして、友人は俯いて垂れた髪の間からこちらをじっと見た。

その時の目つきが浮かんだ。
その時の匂いが今もしていた。
その時の呻き声が耳に蘇ってきていた。

それ以降、葉書が届くまでの間に何が起こったのかはわからなかった。連絡を取るのもやめてしまっていた。友人が吐いた後、あの晩何があったのか。それも覚えていない。あの目つきと、匂いと、音と……。それらから何を感じればいいというのか。

今でもわからないのだ。
頭がふらつくような感じがあって、太陽から目を背けた。

墓地では、太陽の光を浴びながら、さっきのおじいさんが一人で墓の前にしゃがみこんでいた。どこか別の入口があるのだろう。
目の中に緑色の太陽の影が残っていて遠近がつかめなかったが、また歩いて帰ろう、と思った。歩き続けることしかないのだった。

どこをどう歩いたかは覚えていないが、またあの駅に戻った。
そうすると、先ほどのスーツの男がまたこちらに向かって近づいてきた。わかっていますか、あなたは、全てが、わかりたくないですか、と。
歩くスピードを変えずに今度は、これから歩いていきますので、と言った。
高架橋の上を電車が駆け抜けて、音が残る。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?