見出し画像

認識の違い

認識の違いのことについて、昨日気になる出来事があったのでお話したいと思います。

人により持つ感覚は異なるものだなと実感させられる出来事でした。


薬の種類

昨日、母が「指の皮が捲れて痛い」と言いながら、薬を塗っていました。

その薬が「ヘパリン類似物質油性クリーム」という類のものなのですが、これが何の薬かご存知でしょうか。
実はこちらはアトピー性皮膚炎を起こしている人が皮膚科で処方されたりするもので、最近だと成分の内容量が異なるかもしれませんが、市販もされるようになりました。(※本来皮膚科で処方されているようであれば、処方された人物以外に使わせてはいけません)

その“アトピーの疾患部分に塗る薬”を、指の皮が捲れた部分に塗っていたのです。

これがなかなか個人的には衝撃でした。


考え込んでしまう

なぜ母は皮が捲れた部分にアトピーの薬など塗ったのか......。

「それ、アトピーの薬だよ。傷薬のように殺菌効果があるものではないはず」という旨を伝えたのですが、何が?といった様子で塗り続けていました。

......どうすればいいのだろうか。

なぜあの薬を塗ったのかまったく理解できず、非常に仕様もないやり取りの後に悶々と考え込んでしまったわけです。

しかしそう言われてみれば、このようなやり取りで不思議に思うことが昔から度々あったのです。

機械油の汚れが石鹸で落ちないと言っているのですが、なぜ同じ質感のオイルを試さないのか。

なぜ血をお湯で洗い流そうとしているのか。

私がおかしいのか、母がおかしいのか、何がなんなのかよくわからなかったのですが、
おかしいというより人により認識に違いがあるのかもしれない
なと。

少々は話がズレますが、なぜ私は自分を疑ったのかというと、多数決で負けるからです。
この「同じ質感のもので落とせる」「血はお湯でなく水で分解される」ということを外で説明すると、変人扱いされます。

「機械油の汚れが石鹸で落ちるはず、血がお湯で洗い流せるはずなのに、
全然落ちないね
」の会話に乗らなければいけないようです。

で、結局何が言いたいのかというと、本来はアトピー用に処方された薬を皮が捲れたところに塗っている人がいても、見て見ぬふりをするか、一緒に「全然落ちないね」をしなければ、周囲の輪には入れないということのようです。

要は人により認識の違いがあり、その認識の違いを認め合わなければ、孤立するのだなと。

薬ひとつで、なぜ自分だけがいつも変なことを話している人間だったのかということがわかったような気がしました。

「ダイヤモンドをダイヤモンドの粉末で削る」話で説得はできないようです。


ワンチャン、アトピー性皮膚炎にかかったことがない母が“アトピーは傷のようなもの”だと認識しているのだとすれば、あの薬の出来事は納得できたのですが......きっと違いますね。






次の記事⇒

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?