行ったら最期かもしれないけど素晴らしいところ🌙
こんばんは。今日もお疲れさまです。
みなさんは、天国へ行ったことはありますか。
そりゃぁ生きている人が行くことはないはずの場所ですが、私は天国のようなところへ行ったことがあります。
夢のようで夢ではない夢でした。
単なる夢とは違うというところが感覚的ですが、確信なのです。
3.11は当時大学生であった私に想像以上の影響を与えました。被災しているわけでもなし、知り合いを亡くしたわけでもありません。
なんの災害も起きない地域でのうのうと過ごしていたわけですが、3.11の後、世の中が辛く重い空気に満ち、その空気は健康体である私に大きく振りかかってきました。
まずは大学へ行けなくなってしまいました。
今まで楽しめていた趣味もなんの楽しみも感じなくなりました。
テレビニュースでの被災地の光景は、人並みに観ることができていました。
鬱というには健康。しかし正常というには違和感のある感覚でした。歯車が違う方向に動いているような。
その感覚は想像以上に疲れ、何もしてないのに空気を吸う度、時間が1分1分すぎる度、疲弊していくのを感じました。
その頃私は驚くほど寝ていました。寝始めると起きれないといった様子。
病院へはかかりませんでしたが、自律神経に異常があったのかもしれません。
昔から不思議な夢をみることが多かった私ですが、その夢をみて起きたあと、確実にその場所へ自分が行っていた事を理解しました。
夢は自分が死に、水先案内人の謎な人物に出会い、導かれながら亡くなった経緯を思い出す作業でした。あちらに行った私は自分がどう死んだのか忘れているのです。
ただただその場所が心地よく美しく懐かしく、人生をやりきったという充足感、達成感と、安堵の気持ちでいっぱいでした。
窓がとても大きな石造りと思える建物に居るのです。外の景色は大自然でした。大きな大きな滝が遠くに見えていました。
そしてどうやら私は3.11で被災し、亡くなったようでした。
水先案内人の人はとても長い時間をかけて、多くのものを私にみせました。
地球のありとあらゆる景色。
生身のままでは行けないような自然の中、高く高く飛び、サバンナの光景を眺めている時間が印象的でした。動物たちは走り、木々は栄えて枯れて、その様子を随分と長い時間をかけて眺めていたような気がします。
その間、ただぼーっとしていた訳ではなく、心では様々な思いが巡っていました。
ひとつは、一緒にこちらへ来てしまった友人の事をとても不憫に思い泣いているのです。
その友人の家庭は、上手くいっていませんでした。家族一人一人は暖かい心を持っているのですが、なぜか1つの家庭としては上手く機能しないのです。すれ違い、傷つけ合い、そんな日々でした。そんな友人を、生前から心配していました。
こちらへ一緒に来てしまった友人は、もう家庭の修復を試みることができないのです。小さなズレを心開くことで繋がりあえる手の届くはずの修復が、もう叶わないのです。
わたしはそれがとてもとても辛く、不憫で、可哀想で、世界で1番悲しいことのように泣きました。自分のことはさて置き、友人がこちらへ来てしまったことへの嘆きや悔しさを私は泣き怒りしなが水先案内人の人にぶつけました。
水先案内人の人は真っ直ぐ前を向いていました。無視はされていませんでした。
しかし人間のように優しく聞いてくれる様子もありませんでした。
その嘆きが未練なのでしょうか。
悔しい気持ちを発散した途端、気がついたら別の場所に来ていました。
柔らかく壮大に光る森の中なのです。
あまりに光っていて数メートル先が見えない程です。近くにある石や木々だけが見えています。
光は強いのですが眩しくはないのです。小さな小さな粒子が光っているような、ぼんやりとした柔らかさで、しかしあまりにも温かく壮大なのです。
そこで初めて私は自分の家族を思いました。
それがとても淡白だったのです。
「あちらの世界で家族として繋がってくれていた人たち、どうか私の死などにとらわれず、どうか各自の人生を全うしてほしい。」
この言葉は、光る森の大きな岩に腰掛けた私が、ほとんど一語一句同じ言葉を心の声で語ったのです。
独り言のような、その森にその言葉を置いたような。
その言葉を心で発した途端、私は光の粒となり、宇宙へと飛んでいきました。
正しく言うと、飛んでいくという自主的なものではなく、回収されるという感覚です。
ひゅんっ と。
この夢はその後の人生観を助けるものとなりました。
意地というのは、生きてるうちに解消しておくもの。それが出来ずにあちらへ行くことは、命を失うことよりも悔しいことなのです。
そして、人は人生をまっとうすると、あの場所へ行くのでしょう。
石造りの建物には、私以外に数人の人がいました。みんなそこへこられた事に嬉しそうでした。みんな人生をゴールし、たくさんのことから解放され、肩の荷が降りたのでしょう。
人生はとても苦しいものです。
幸せや宝物は苦しさに比べるとあまりに少ないように思います。
ですが、みなさん。
ドン底でも、苦しくても、涙の止まらない夜が続いても、泣けずに狂ってしまったとしても、最期はあんなに美しいところへ導かれます。
場所は違うとしても、あの開放感と、充足感は味わったことのない幸福感です。
生きていきましょう。
そちらへ行くことを急いではいけません。
何故ならまた同じ課題を与えられてしまうからです。それについても確信を得るような出来事がありました。そのお話はまた別の記事で…。
亡くした最愛の人は、あちらであたながあなたの人生をまっとうすることを切に、それは切に、願っています。
そうでないなら、それは悪いものの囁きです。無視しましょう。
いつか宇宙のどこかへ光の粒になり回収される日まで、地球というこの場所で、ボロボロになったり息も絶え絶えしながら歩き抜きましょう。
全ての人へ、あの森の光の恩恵が与えられますように。