つれづれ6月12日

ひとつ前の投稿で「ポップコーンを音を立てて食べる人の近くで映画を見たくない」と書いた。書いて少し経って、思った。そんなにつよい拒否感もってたっけか。確かに全然集中できない時期があったはあった。それも1、2年あった。三十代の終わり頃だったと思う。そのときに自分は映画にシンクロする食べ方を学んだ。だけどそれはかつての話だ。今は「ポップコーンを音を立てて食べる人の近くで映画を見たくない」とまでは思わないのだ。なんだったらポップコーンを食べる人が隣に来たら、どんなタイミングで食べるのか、どんな音を立てて食べるのか知りたいくらいだ。知りたいというのも言い過ぎか。まあ要は今はポップコーンを食べる人の喜びや次々食べてしまう惰性も理解してるつもりなので、訳知り顔で自分はいられるよと。ぼくに配慮することはないよと。そう伝えたい。伝えたいったってここを読んでくれている方なんて数えるほどだ。数えるほど。そんなありがたい方たちにせめて伝えよう。
ええと。
ポップコーンはおのおの自由に召し上がってください。

ええ。そうです。
よけいなお世話です。

というのを導入に西加奈子『くもをさがす』を読んだことを書きたい。なんてスムーズな話題転換だろう。ぼくは西さんがカナダに住んでいたことも知らずそもそも西さんの著書を他に読んだことがないのだけど、積んではいるけど、読みたいとずっと思っているけどまだ読んでないけど、という人間がやっぱり『くもをさがす』に記されているという日々や思いがとても気になり手に取った。他の本たちに寄り道しながら読んだ。読み終わった。
なんて端正な語り口だろうとほれぼれした。簡潔で、要点を的確に、ハッとするような表現で描写して、ふふっと笑わせたりスカッとさせたりギュッと胸を苦しくさせたりする。それから、なんて他者を大切にする人だろうと思った。たくさんの友人がいて、みんながたのもしくて、親身にしてくれる。同じ病気を乗り越えてきた人たちとも知り合いつながっていったりもする。もちろん書いていないこともたくさんあったのだろうけど、書いてあることの流れがとても美しくて読書そのものがたのしかった。内容は辛かったり痛かったりもしたけど、一緒に”気づき”を体験していった。まるでぼくのこの文章とは正反対だ。比較するのもおこがましい。

そして『くもをさがす』を読みながら、ソーシャル・キャピタルのことを考えた。人とのつながり。表があれば裏がある。人とのつながりが希薄な人。支えてくれる存在や話を聞いてくれる存在、そばにいてくれる存在を持っていない人。そういう人はどうするんだ、と強調したいわけじゃなくて、単純にそういう人がいる、ということを考えたということだ。この思考は矛盾しない。西さんの存在に言葉に胸を打たれながら、同時にそうあれない存在を想像する。もちろん本の中でもそういった遠い存在への言及はあるが、西さんは西さんの視点を、生を、書いてくれている。受け取ったぼくは、ぼくの視点で受け取った。これはとても大切なことなんじゃないかと思う。とても。

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