半演劇日記-11

2024年1月5日
読み稽古を続ける。深まっていくといいなと思いながら。すべては気づきにつきると思う。何もかも、気づいていくことがきっと大事だ。

夜の空いた時間、『3・11の未来/日本・SF・創造力』(作品社)の瀬名秀明が寄稿したエッセイを読む。アニメ評論家の藤津亮太さんがコロナ禍にあって再読しているとポストしていたことで知った、瀬名さんが3.11を経て考えたことをまとめた原稿だ。3.11当時を知る人は多いと思うが、Twitterには情報が氾濫していた。凄まじい量の情報が流れ、どれも濃度や密度、衝撃性の高いものだった。被災地にはいないけれど溢れかえる情報に浸ってしまう状態、瀬名さんはそれを「情報災害」と書いている。読みながら、当時のぼく自身、その「情報災害」を全身に食らった一人だと思った。心が疲弊し使いものにならなくなり、現実でうまく働けなくなった。それでも情報を追い続けた。

2024年1月1日、能登半島地震が起き、情報が次々と流れてくる。ぼくができることは極めて限られていると思った。いまは情報を集めることではなく、被災した方々のことを必死に思い”続ける”ことでもない。無力感でもって自分を傷つけることを避けたいと思った。

瀬名さんが上記のエッセイで書いていることはあまりにも力強い。小松左京が『小松左京の大震災 ’95』で阪神・淡路大震災の記録を丹念に残したのちに、どうなってしまったのかを書き、自分は同じ轍を踏むまいと書く。それは反面教師であると同時に、それでも自分もいつか「書く」だろうという予感をも含んだ”否定”だった。一人の人間が災害に向き合い続けたあとにどうなるのか。あるいは向き合い続けることは可能なのか。どのような向き合い方が可能なのか。多くの創造力(先行文献や先行文学)を引いて書いていた。

3.11の際、ぼくは大きな不安からインターネットに張り付いて離れられなくなった。その後、手に取った様々な書籍や文献はいまも大きな財産になっているが、それでも代償は大きかったように思う。いまは、自分の生活や活動を手放さずに、自分が可能な範囲で向き合いたい。

そう考えることもあり、自分は自分の方法で受け取り、応じていこうと思っている。あえてSNSに書くことではないけど、ここには書いておきたいと思った。

同時に、創造力・想像力のことを思う。それは目に入るもの、だけでは捉えられないことを考える力。日常の中にあり、日常の隣りにあり、日常の背中を押してくれる力。もしくはその距離を感じさせてくれる力のことだ。

いただいたサポートは、活動のために反映させていただきます。 どうぞよろしくお願いいたします。 ほそかわようへい/演劇カンパニー ほろびて 主宰/劇作、演出/俳優/アニメライター