ライターはおすすめできない

先日「17年間ライターを続けて来られた、たった1つの理由」という記事を書いたけど、今日はあえてこう言ってしまおう。「ライターはおすすめできない」

「お金にならない」という理由でライターを否定する論調があるけれど、自分がライターをおすすめしない理由はそこにはない。問題は、枠組みにおさまることの怖さにある。

特にメディアづくりに興味ある若い人。職歴ほぼナシでライターなんてよしなさいよ……とオカンのごとく余計なお世話を言いたくなってしまう。紙媒体系の枯れたメディアでの仕事は、特に要警戒だ。仕組みや仕様が確立された中で中身をつくることには長けていくのだが、入れ物をつくる機会はそこにはない。

作家とか、ルポライターとか、はたまたアフィリエイターとか、自分発信のコンテンツで食っていく覚悟があるならば、それでもいいのかもしれない。でも「編集」に興味があるなら別だ。ライターのような下流工程の制作職はそこそこにして、現代の入れ物のつくり方を早いうちに自分に叩き込んでおいた方がいいと思う。

なぜこんなことを言っているのかというと、自分が長くライターの仕事ばかりをやりすぎて、入れ物のつくり方がわからなくなってしまった人間だからだ。

ライターをやっていると、面白いアイデアや、さまざまな最先端の仕事に触れることができる。建築家、芸能人、政治家、社長。いろんな人に会える。いろんな地域に行ける。取材で足を運んだエリアは気づけば約40都道府県+海外4カ国に及ぶ。そしていろんなメディアと組み、さまざまなコンテンツ作成の方法論やギャラの相場を知ることになる。

そこでうっかり誤解してしまう。「いろんな媒体や編集者と仕事をしてやり方がわかったから、自分でもメディアをつくれる」「けっこう顔も広がったから、メディア制作のコーディネイトには困らない」

それが勘違いだとわかったのは、6年前に東京から京都に移ってからだ。

京都のような場所では、ライター単体の仕事は、ほぼ存在しない。東京で磨き立てて来たのは、単発の記事を企画、取材依頼からカメラマン手配、制作まで手堅くまとめ、納品する技術にすぎない。これをありがたがるのは、入れ物の中身の制作を下請けにまわしたい版元やプロダクションにかぎられる。

地方でメディアをつくる場合、クライアントは、中小企業とか自治体、地域団体、大学など、地元の組織が中心になる。彼らがメディア系人材に求めるのは、ざっくりいえばメディア戦略のパートナーである。

パートナーなるもののお仕事とは、ぼんやりした目的を明確にし、隠れた要望や特徴をすくい上げ、適切な形を与えることである。できあがるものは本だったり、ウェブサイトだったり、ときには場やイベントかもしれない。ひとまず東京で培った専門知識や人脈は大して役に立たない。アラフォーにして突如そのような状況に直面し、私はDTPやWebを学び直した。メディア制作の手法やトレンドを把握するためだ。

あれこれ実地で勉強すると、入れ物をつくるという発想そのものを更新しなくてはならない気もしてきた。昔の入れ物はオーダーメイドでつくられていたけれど、昨今はありもののアレンジで結構なところまでいけるからだ。

数年前、思想地図界隈の人たちの間で、コンテンツ派とアーキテクチャ派という対立的分類がなされていた。コンテンツ派=動画や物語など生成物そのものを信じる派、アーキテクチャ派=創作を促すアーキテクチャの設計が大事だよ派、とかそんな分け方だと思う。そこまでしっかり追っていなかったので、間違っていたら申し訳ない。

このとき話題の渦中にあったのはニコニコ動画だが、近年その勢いには陰りが見える。共有サービスの流行サイクルが早まっているいま、アーキテクチャ派としての振る舞いが求められそうなディレクター寄りのスキルすらも、アーキテクチャの設計ではなく、旬のサービスをいかに利用するかに比重がかかっている。入れ物も中身もゼロからつくる必要はない。さまざまなチートが可能である。

アーキテクチャがこれだけ多様だと、コンテンツの方も、インスタには映えないがTwitterならいけそうだとか、SNSごとに内容を変えるか統一するか、動画も試すべきかどうか、などと戦略が必要になる。

むしろ流行のアーキテクチャに乗っかるのは一切やめ、たとえば本業は和菓子屋さんだけどめっちゃ絵がうまい人にイラストを頼むとか、"回覧板映え"を意識してチラシをデザインするとか、そこに存在する事情やリソースから手づくりをした方が強度が出ると感じることも多々ある。

発信方法に正解はない。

それでもいろんなものを組み合わせ、なんとか形にして、発信するということは、ある枠組みの中でなんらかの記事をまとめるよりは、自分にとっても共同した人たちにとっても、だいぶ持続的で、頼りがいのある糧になる。

ライターの仕事は、それはそれでやりがいがある。特に自分が専門とする建築は、場所を選ばず存在するし、時代を超えて残るものも多い。だから取材を通じて自分の狭い想像力を超えるものや場所、考え方に巡り会うことができた。分野の裾野を広げることにも、多少は貢献できている気配もある。

だが、コンセプトメイキングやマネジメントから逃れ、責任も取らずに刺激を得られるという恐ろしい性質もあわせ持っていることは伝えておきたい。

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