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七夕に想う取り留めのないもの



人は何故、裸のままで生まれてくるのだろう



最近この疑問についてぼんやりと考えていたのですが、
先日noterさんのあつこつさんの記事とリンクしたのをきっかけに、自分の中に漂う取り留めのないものを置いておこうと思います。




霊長類で唯一、体毛を持たない人間。

人間の胎児は胎生期間に毳毛ぜいもう という産毛が全身に生えるそうなのですが、この毳毛は出産前までに抜け落ちてしまうそうです。


抜け落ちた産毛はその後軟毛と硬毛に生え代わるのですが、私達はこの世での歩みを始める前に他の動物のように全身を体毛で覆うという選択肢を胎内に置いてきています。



子宮は宇宙と地上の言わば繋ぎ目のような場所。

その場所で羊水に優しく包まれていた私たちは
地上に生れ落ちると同時に今度は大氣に包まれ布にくるまれる。



生まれてからずっと私たちの肌を包み続ける
布とは何なのだろうか。



高天原で天照大神の元にいた機織女が織っていたのは神々が纏う神御衣カムミゾ



七月七日は七夕

織姫に思いを馳せながら
織布について思いを巡らす。



織りとは何だろう。

縦糸と横糸


縦は時の軸

横は空間の軸

縦を司るのはアイオーンであり

横を司るのはクロノス


そして直交する縦と横の軸にもう一つ、
目には見えない織り手自身の軸が加わる。


見えない糸を交差させながら永遠とわに織りなされてゆく一続きの織布



天人・天女の纏う衣には一切の縫い目がないという。

天衣は天意であり、
宇宙には終わりも始まりもなく
全てのものが繋がっている。


天女の美しい羽衣はあの世とこの世の
架け橋の象徴


織は線が面になり面が立体になる。
織は折りでもあり平面を立体にする。



私たちの纏う服


布をバラバラに裁断して立体的に縫い合わせ、
着る人のサイズにピッタリと合わせて作られる洋服。

洋服は言わば「個」に合わせる服。
まず先に個があり、それを軸に布が仕立てたれる。


一方で和服は途切れのない一続きの反物から作られる。
平面的に作られる日本の着物は体型や着る人を選ばない。

和服は纏うことで着る人それぞれの体型に沿って調和し、馴染む。

「曖昧さ」を包み込む服。




服にまつわる放蕩息子のたとえ話が浮かぶ

『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。』  ルカによる福音書


人はこの世で肉体をという衣を纏って旅に出る。

長い旅路の果てに疲れ果てた放蕩息子は悔い改めて父の元へと還る。


その時に暖かく包まれる衣とは何なのだろうか。



人はいつか還る父の元で纏うであろう
輝く天衣に憧れを持つのかも知れない


それは宇宙の終わりなき光の循環への帰還であり
タナトスへの憧れ



人は地上で記憶をなくしたが、
父である宇宙のことを微ながらにも
繋ぎとめておけるよう、
裸で生まれたのかも知れない



布を纏うことで
天の父からの愛を忘れないために





💫七夕によせて 

インスピレーションをくれたあつこつさんの記事はこちら🕊️.₊̣̇.ෆ*˚*ෆ.₊̣̇.ෆ*˚*