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「食べる」ということ

【生き方の先生】と思っている方がいる。

最初の頃は、なんだか凄いことを色々となさるので「ああ、神様に見つかっちゃった人なんだな」と少し遠巻きに尊敬していた。

お世話になってゆくにつれ、「ご自分の心に対して、見詰め続け誠実でありたい人なのだな」ということが分かってきた。

先生からは言葉や瞑想体験などを介して色々と教えて頂くことも多いのだけれど、たとえば何もしないで「ただ居る」だけだとしても、私の心は柔らかく呼吸して、満タンになるだろう。

野花が風に揺れるのを見て、心が優しい感触を取り戻す瞬間を味わうように、ただ生まれてきてくれて、生きてきて下さっているだけで何か大きな、大切なものをいつも頂いているように感じる。

誰かにとって、私もそのような佇まいで生きていけたらと思う。


ヒーリング、カウンセリング、音楽、絵など様々な道順から「癒し」のアプローチを取られるのだが、「お食事」という面からも優しさを、心に体に届けてくださるようになった。

もぐもぐしながら、毎回、眠くなってしまう。
これは食べる「日向ぼっこ」。
滋養のあるご飯。
お野菜メインですが夜までお腹がホクホク顔です。

「味わって食べる」
「感謝して食べる」
は、私の場合は疎かになりがちで、食べながら別のことを考えてしまったりする。

それが漸く、つい最近、わかった。


気付く切っ掛けになった始発点は、先生の元で「浄化の瞑想会」に参加したところ、内容が「先祖代々の罪・咎・穢れを自分の代で浄化(神様に謝罪)する」という途方も無いものだった。

壮大過ぎる。

しかし誘導もまたピカイチなので、効果は抜群なのであった。

思いがけず深い瞑想体験となったが、「日々出来ると良いですね」の言葉に内心「うおぉ…」と唸った。

その時はあまりの「荷の大きさ」に慄いたが、神社のお参りの際に戦没者慰霊碑にも手を合わせる際は感謝と、新たに「罪・咎・穢れを私が代わって浄化に努めます。共に生きましょう」と伝えるようになった。

その日から、「いただきます」の時にも手を合わせて、「皆さん、共に頂きましょう」と先祖代々や慰霊碑の魂を想っている。

何回かそうしているうちに、ハッとした。

野菜ひとつひとつが、お日様や、雨や、土、生産者さんの手間と願いを受けて、幾日も幾日もかけて大きく育ち、何人もの手を渡って今、私の前に来てくれたのだと。

これはすごいことだ。
とても、漫然とは食べられない。

とても当たり前のことなのに、大切なことなのに、「知っている気」になっていただけだったなと驚いた。

ひとくち、ひとくち、時間を食べている。
愛や恵みを食べている。
食べて私の身になって、共に生きて生かしてくれている。

そう気付いた時から、味も鮮明になったような気がした。




私は10代まるまる、「こんな所に私を産みやがって」と怒りに煤けて生きていた。
そろそろ鎮火したと思っていたのに、「浄化の瞑想会」の最中、その燻りはしぶとく顔を覗かせた。

瞑想の際に先生から「私たちの代で先祖代々の罪・咎・穢れを浄化することが、私たちの生まれた役目であり、漸くそれが叶う時代になった」と教えて頂いた。

そう耳に入ってきた瞬間、自分の中で「なんでや!(拒否)」と「そうか!(受領)」がいっぺんに来た。

瞑想が進むにつれ、首が最深部までうなだれた。体は私の意思と分離して、ぐんぐん深くうなだれる。

瞑想の終わり、いよいよ浮上しなければならぬのに…という頃、「神様への謝罪」と同時に「生きて私に繋いで下さった人々への感謝」が泡のように体の中に浮かび、泡の浮上と共に顔を上げることが出来た。

その日から、生きることに対して厚みを得たように思う。
「私ひとりで生きてるのではなく、沢山の人に生かされている」こと、「共に生きている」ことが身に馴染んでき始めている。


「頭で分かるのではなく、カラダで分からなくてはだめ」とは先生の言葉。


このようにして、不出来な生徒は日々学んでおります。

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