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ソ連最後の夏の旅⑧レニングラード

まさか、まさかが続いたレニングラードでしたが、事態は急転します。ただの観光旅行のはずが、どうしてこうなった。


外務省より「帰国せよ」

朝食の席で。添乗員のキムラさんが緊張した顔でニュースを伝えました。
「昨晩、モスクワで市民が戦車にひかれ、殺されるという事件がありました。そして日本の外務省より通達が出されました。旅行者は、できるだけ早く帰国しろというものです」

予定ではその晩、夜行列車でモスクワへ向かうはずでした。モスクワ→日本の切符が取れれば今晩にでも帰国する、ただしチケット代は30万円になるとのこと。「30万!」なんということでしょう。もう1つの方法は、3日後のハバロフスク→新潟の便をおさえて帰国する、というもの。こちらはいくらか安くなるけれど、まずハバロフスクへどうやって行くかが問題です。

のんきにレニングラードで散歩している間にモスクワでは大変なことになっていました。とはいえ、邦人保護の外務省通達は大ゲサだという気も否めません。旅程が短縮された上、追加でお金がかかることに納得がいかない、とぶうぶう言っていたら、気弱そうで優しいキムラさんが、毅然として「安全の方が大切です!」と大きな声を出しました。とりあえず市内観光は中止、自由行動で午後2時集合、キムラさんとターニャさんは帰国方法を探すことになりました。

ドストエフスキーの墓参りへ

帰国する前にどうしても行きたかったのが、ドストエフスキーのお墓です。アレクサンドル・ネフスキー大修道院のそば、チフヴィン墓地にあります。私は『地下室の手記』で彼の毒に当てられました。まだ読み残した作品はありましたが、なんとしても行かねば行かねば、と焦り、手持ちの中で一番良い服を着て、メトロへと急ぎました。地上に出ると、路上の花売りが何人か商いの準備をしていました。目にとまった淡い黄色のバラを、時間前だからと渋る売り子さんに、なんとか粘って売ってもらいました。墓地の入口にいたおばあさんに場所を聞くと、手を引いて連れていってくれました。

墓標の前に、厳しい表情の胸像が立っています。緑陰のもと、じっと瞑想にふけっているようです。私も。おどおどと前に立ち、思いをめぐらせました。とても静か。墓地には私だけでした。まわりの小さな花壇に赤い花が咲き乱れ、炎のような赤いグラジオラスが供えられていました。ドストエフスキーには、赤が似合う。でも、小さな黄色いバラも悪くはない。何度か振り返りながら、墓地をあとにしました。


再び市庁舎前へ

それから、一目散に市庁舎前に駆けつけました。がれきの山を乗り越え広場へと。モスクワでの殺人に抗議演説をする人、呼応して喚声を挙げる人々、さらに情報を集める人たちで騒然としていました。集会を警察がとりまき物々しい雰囲気が漂います。一方、集団から少し離れて、ちゃっかりと、パンや飲み物を売る露店、そして改造トラックのカフェが出ていました。たくましいぞ、ソ連人。

サプチャク演説の後

ロシア語がわからない外国人たちは、英語が話せるロシア人の周りに集まります。あるスイス人が尋ねました。
「今朝はとても新聞が手に入りづらいのですが、何か特別な理由があるのですか?」
モスクワからビジネスで来たというおじさんが答えました。
「理由は2つあります。1つはこんな大事件が起こっているので市民がいつもより新聞を買っているからです。そして、もう1つ。あなた方のような旅行者が、おみやげに新聞を買っているからです」
超ドヤ顔です。

そして、レニングラードの地方紙を取り出しました。見出しは
「ヤナーエフを逮捕した人にノーベル賞を!!」
駅前のキオスクには束になって売っており、市民が列を作って飛ぶように売れていました。こんな時にでも列を作るのはソ連人の習性なのでしょうか。

ハバロフスクから帰国なら5万円

刻限の2時。息を切らせてホテルへ戻りました。状況は朝と変わらず。チケットが取れたらハバロフスクから新潟へ帰るそうです。追加金は5万円。

ソ連の受け入れ機関スプートニクは、もう夜行列車の手配が済んでいるのだから、モスクワへ来いと言っている。外務省と日本の旅行会社、そして何より通訳のターニャさんが強硬にモスクワ行きを反対している。「モスクワは危険です」。こうなったら成り行きまかせしかありません。状況がはっきりするまで、また自由行動になりました。

いったい何が起こったの?

もうこれで最後。靴紐をきゅっと締めて、市庁舎前へ向かいました。すると、なんだか様子が変です。午前中よりも人が集まり、ラジオの音が大音量で流れているのですが、何か整理整頓されたような雰囲気です。バリケードが撤去され始め、手書きの看板やビラは姿を消し、きれいに色刷りされたポスターに張り替えられています。ロシアの三色旗があちこちではためく。なんとなく拍子抜けした気分でした。

市庁舎前


気が抜けたら、トイレに行きたくなりました。近くのアストリアホテルの立派な入口で守衛さんに声をかけ入れてもらいました。白い壁や床、ピカピカに磨き上げられたようなシャンデリア。これぞ「ホテル」といった内装に目を奪われ、化粧室をお借りする。驚くほど広々として清潔。肌触りの良いティッシュペーパー。ハンドドライヤーまでついています。もちろん便座は誰も持ち去ったりしていません。ここは、あの「ソ連」とは別世界でした。外貨ショップで買ったビールは冷えていて、とても美味しかったです。

急転?

メトロを降りて駅前に出ると、人々がラジオに集まり、ああ、とか、おお、とか、ため息のようなどよめきが上がっている。皆、真剣な顔をして話に聞き入る。

ホテルのレストランに戻ると皆、随分とおだやかな様子。なになに?と聞いてみると、誰かが「モスクワへ行けるんだって」と声をはずませました。キムラさんが「ヤナーエフが逮捕されたんですよ」と教えてくれました。

「ゴルバチョフさんも無事、元の座に戻ったようですよ」

へ?と拍子抜けした間抜け面の私に、皆口々に「よかったね」と声をかけてくれます。いつ、どうやって、誰にヤナーエフたちは逮捕されたんだろう?クーデターは茶番だった?なんだか釈然としません。これは新手の観光サービスだったのでしょうか。とりあえず、気を揉んで揉んで仕方がなかっただろう添乗員のキムラさんが、この知らせを一番喜んだと思います。

バリケード後 リサイズ

そして、あちこちにバリケードの跡が残る町を見ながら、私たちは夜行列車に乗ってモスクワへ向かいました。さよならレニングラード。

8月21日の動き

午前
0時30分 ロシア最高会議ビル周辺でソ連軍により攻撃開始
2時    攻撃停止。装甲車に轢かれ、市民3名が死亡

午後
14時25分 エリツィン「非常事態委員8人全員が出国を試みている」と発表
16時40分 「非常事態委員、モスクワ脱出、中央アジアへ」と報道


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夜行列車で一路モスクワへ。そこで目にした、喜びの光景とは。あともう少しおつきあいください。

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