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ダブルスタンダードへの怒りは、世界を緩慢に殺すかも

ダブルスタンダードは確かに嫌な物だ。

立派な事を言っている人や組織が、実際の行動においては、ダブルスタンダードだったら、恣意的だとか偽善だと批判したくなる気持ちはよくわかる。

しかし、ぼんやりと思うのは、ダブルスタンダードは、運動や思想に力を与えているのではないかということだ。

いやむしろ、力を持つ運動や思想というのは、ダブルどころか、トリプル・クアトロスタンダードくらいなのではないだろうか?

思想や運動が支持を集めるには、多くの人に「これは自分のことを言っている」「これは自分のための運動である」と感じさせる必要があると思う。

そして、当然だが我々1人1人は、属性も性格も考え方も違う独立した人間である。

そんなバラバラの存在である我々に、「これは自分のことを言っている」と思わせるには、思想が曖昧で、解釈の幅が広いということが重要なのだと思う。

この時点で既に、「スタンダード」とは一体・・・ となる。

だって、曖昧な事のスタンダードなんて、曖昧にならざるをえない(というか、厳密に定義できない)のだから。

いやいや、曖昧でも曖昧なりに、スタンダードを一貫する事は出来るはずだと思う向きもあるだろう。

ダブスタの問題は、基準の曖昧さではなく、基準が一貫しない事なのだと。

しかし僕が思うのは、ある思想や運動が力を持つには、継続性が無ければならず、そのためには基準なんて一貫してない方がいいのだ。(程度問題だが)

なぜなら、基準を一貫させた行動や思想は、多くの人にとって負荷がかかる物であると思っているからだ。

基準が一貫した行動や思想は確かに尊敬される。しかしそれは、そうする事が難しいからこそ、尊敬されるのだ。

そして、ある思想のフォロワーや運動の参加者が、思想や運動への参画を継続するためには、極力、負荷は少ない方がいいだろう

さて、ここまでくればダブルスタンダードへの怒りが、世界を緩慢に殺す毒になると考える理由も分かるだろう

そう、ダブルスタンダードへの怒りは、思想や運動への参加者を減らし、継続を困難にする可能性があるのではないかと思うからだ。

その結果、恐らく、現状維持への強力な磁場が発生すると思う。

現状変更は、今存在しない考え、もしくは妄想された過去を必要とするのだが、そういった考えはどうしても曖昧にならざる得ない
(今存在しない考えとは、例えば加速主義の果ての未来を考えるようなものであり、妄想された過去とは、反近代・反資本主義をこじらせすぎて、封建制や共産主義を、現在に復活させるようなものである)

そう、曖昧であるゆえにダブルスタンダードだ!と文句を言われやすいのだ

では、そんな世界でまだ、スタンダードが見えやすい物とは何か。それは現状の世界だろう

ダブルスタンダードが道徳的な非難になるほど、それを回避するには、すでにスタンダードが分かっている現状の社会を肯定してくのではないか

確かに、強者のダブスタを突くのが弱者の特権かも知れない。

しかしダブスタ批判は、新しい思想(新しい思想こそが世界のルールを変えて、現行の強者を倒せるかもしれない最たるものだと思う)をつぶしてしまうだろう。

そして、思想が変わる事のない社会とは、決して序列が変わる事のない窒息すような、まるで緩慢な毒のような社会なのかもしれない。

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