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身代わりの崩落


大雨が降った翌日、裏山が崩落した。

大雨と大風は、精神をもかき乱す。
ただでさえ、三月という落ち着かない時期に、このお天気のごとくわたしの内面は乱れていた。裏山崩落は、そのトドメのような出来事だった。


朝、大きな音がした、と娘が言っていたが、家の中の負けないくらいの喧騒で、わたしは気に留めていなかった。そこへ、朝陽を浴びに外へ出ていた夫が、はにわのような表情で戻ってきて言う。

「大変なことが起きた。土砂崩れが起きている。」


またまた、大げさな。と思いながら外に出て家の裏に回る。

なんと。
家から1メートルくらいのところに大きな岩が落ちていて、山の表面がざっくりと削られている。崩れてきた小石や土砂が、新たな小山を作っていて、あれ?初めからこうだったっけ?と思わせるように佇んでいる。
しかしよく見るとツツジの木が根こそぎ倒されていて、落ちてきた石の威力を物語っている。

衝撃を受けたわたしは、まず子どもたちの寝室を移動する提案、大家さんに連絡、いやーこれは避難か?どこで生活する?引っ越しも考えないと、と脳内アラートが作動していた。

とにかく誰か、経験者に見てもらってこの状況がどのくらいの危険度なのかを知りたかった。

落ち着かないまま午後になり、大家さんに見てもらい、昨年の台風時に自宅の裏で土砂崩れが起きた知り合いにも写真を送り、アドバイスをもらう。
その結果、そこまで今は心配しなくて良い、と言う判断になった。

え?こんなに崩れてて地震でも来たら、家が潰れるのではないの?と思っていたのだけれど、地震でどうこうなる、と言うよりも水の逃げ場がなくて耐えきれずにごそっと塊が落ちたのだろう、とのこと。むしろ、家からこれだけ離れていれば大丈夫、このくらいで済んでよかった、と経験者から言われる。

そ、そうなん、だ…。

今後、少し大掛かりになるかもしれないが、山の整備、水路の確保を地道にやっていくことになった。


慣れとは恐ろしいもので、当初、「また落ちてくるんじゃないか」とビクビクしながら裏山が見えるトイレの窓からいそいそと覗いて見ていたのが、今では毎朝、裏山さん、身軽になったね、今日は崩れずにいてくれてありがとう、と挨拶するのが日課になってしまった。

今や崩れた後の断面は、心なしかキラキラ輝いていて清々しいとさえ思わせる風貌である。
空気にあたり、呼吸ができた土の輝きなのかもしれない。

大量の水を含んだ岩(と言っても土でできた塊)が、耐えに耐えてもう無理ー!息がしたい!とゴソッと落ちた、と考えれば、さぞかしラクになったのでは、と推測できる。再発防止のためにすることは、コンクリで固め生態系を壊す、とか言うことでなく、水路をちゃんと用意して水の通りを良くすること。それが、自然との共生。

こういう、土中環境や自然保護の理解を頭で仕組みから考えられる人は行動に移すのが早いのかもしれない。わたしは感情にどっぷり浸り、やっとのことで、感覚的に土や裏山のエネルギーを感じることで、仕組みの理解に至った。タイムラグがあってきつかった。

きっと、三月特有の不安定さと、異様な天気も相まっていたのだろう。それにしても、この裏山が教えてくれたこととわたしの状態があまりにもリンクしていて、人間が自然の一部であると改めて実感している。


やっとやっと、今日あたりから、出来事と理解と発言が線で繋がってきた感じがする。
息をしっかり吸って吐こう。それと、身の回りの手の届く範囲を、綺麗に片付けよう。
水はけの良い、生き方をしよう。


そう思ったら動けるようになってきた。晴天とともに。

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