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「頭の良さ」のワナ

比較的自己肯定感の高い状態で実家に行けたのは良かったのだと思う。
ある程度揺らがない心の状態で行かないと、母親に会った後のわたしは寝込んでしまうことがあるのだ。

別に仲が悪いわけではない。
大切な、親である。

特に自分が結婚し子どもが生まれてから、親との関係をさまざまな観点から見直す機会があった。どれだけわたし自身が親の偏った世界の枠内に生きていたかを実感し、時に落ち込み、時に怒り、時に距離を置き。思春期に自分で押さえつけた諸々のごちゃごちゃを、30代になってごっちゃらごっちゃらやってしまった。

母親との諸々で苦しんでいた時は「ああはなるまい」みたいに気張って子育てをしていて、それはそれは辛かった。なんせ受け継いでるモデルが、ありたいカタチじゃない上に、長女はとても手強かったから、模索模索、失敗の連続、感情のジェットコースターと自己嫌悪、の繰り返し。
里帰り出産ができる人、何かあったらすぐ実家のお母さんに頼れる人、そういう人を羨ましく思ったし、自分は母親としてそうなるべきなんだとすら思っていた。

でも今はなんだかもう自分をいじめ切って疲れたのか、親も歳をとってきて、わたしも冷静に「おやおや?」と(笑)思えるようになったのか、正直、関係性の分析もどうでも良くなってきてしまった。

よく毒親という言葉なんかを聞く今日この頃だけれど、親になった時点で、自分は毒親になり得る存在だという認識をする必要があるんじゃないか、と思う。「私は良い親になる」とかいう意気込みが、裏目に出ることが多々あると思う。

自分はただ、縁があって我が腹を使って生まれてきたこの人より、ちょっと先に生まれただけであるということ。その人が将来自分の力で立って人生を謳歌できるように少しの期間そばにいて手伝いをする存在だということ。
それくらい、自分は通りすがりの、だがしかしその人から学びを得るために出会えた存在だということを自覚することが大事なのではないか、と今は思う。

親が子から学ぶことはとても多いし、そのほうが誕生から死までを生きるひとりの人間として成長と魅力につながるんじゃないかい?と今は思っている。

どうであれ、わたしの軸がそうあれば、それで良い話だ。

だから断然、あの頃より楽だ。
だから今日も、寝込まずにこの問題に向き合って文章化する元気がある。
ありがとう、母。わたしは親からも子からも学んでいる、幸運の持ち主です。

さて、ともに大学の教員だった両親は、いわゆる「学歴」的な部分で勉強家で「頭が良い」とされる人間の部類に入るのだろう。わたしがテストで上位の成績を取るのは彼らにとっては当然のことだったし、「やりたいこと」を元に選ぼうとした大学は、名前が知られていないところだからと一蹴され、浪人をしてでも「偏差値の高い大学」に入るほうが価値が大きかった。勉強のためにはいくらでもお金を使ってくれた。そういう環境で育ったわたしはその期待に応えなくちゃと頑張ったし、いつしか自分の心よりも頭を使って生きるようになってしまったし、金銭的にお世話になっている以上反発もできないと思っていた。

でも今思えばさ、自分で真剣に自分の人生を考える機会も、何くそ!って這い上がる強さを実感する機会も与えられずに親の価値観で飼育されたモルモットじゃないですかそれ!!
なんて哀れなんだろう、その自分を、恵まれてるんだから、とぬくぬく生きていた自分って。そう感じた時、半生を無駄にしたような虚無感が襲ってきたこともある。

出来上がった親の価値観を、今更「わたしはこう思う」と対立する必要もないのだが、孫に対して言ってくることもさらっと受け流すことはできるものの胸がチクッとすることは時折ある。だけど、やっぱり自分が安定してきたことで、彼らのマインドに「おやおや?」と思える余裕が出てきた。

わたしはなるべくもうここ10年くらい、母親に真面目に自分の意見を言うことを避けているのだけれど(反応が爆撃のように降ってくるのが怖いから)、昨日は先ほども書いたように自分を肯定していたものだから、つい何回か、爆弾を踏んでしまった。
誰との会話の中でも、触れたら危険というような地雷というものはあると思うのだけれど、ストライクゾーンが5mm幅くらいしかない(とわたしからは感じる)母と話す時はもう至る所に地雷が隠れているのだ。それを地雷と感じているわたしの過敏性はそれはそれで病的なのかもしれないが、とあるひとつの反論で、彼女の逆鱗に触れたりするものだから、その周りの人(とくに家族)はだんだん無口になって受け身になっていく。


昨日はふとした時にわたしが「きれいな言葉を並べる人が良い人間とは限らない」というような発言をした。きれいごとを言う善人ぶった人などわんさかいるではないですか。そういう意味で。でもこれを5mm幅母ちゃんはうむ、そう言う考え方もあるか、と受け取ることは決してしない。
0か100かの頭の持ち主は、こういう人間が良い人間、こういう人間が悪い人間、と自分の価値観で決めてしまっているのだろう。

そして彼女が瞬時に放った言葉が
「その議論だと、トランプ(アメリカの元大統領)は天使だということになるじゃないか」
と、トランプ氏が大嫌いらしい彼女は、わたしの発言を元になんだか怒っている。

もうね、え!?となるわけですよ。わたしトランプさんの話なぞしていないし、誰々が良い人で誰々が悪い人で、なんてジャッジもしてないし、ただ、少し偏り過ぎてるなーっていう発言に対しその感覚を中和したい意図はあったかもしれないけれど、何も断言なぞしていない。
それが母の頭の中では、わたしの考えは、ことばがきれい→悪人、ことばが乱暴→善人、という構図になる、と解釈するのだ。

もうほんと、ちょっとした意見を議論に拡大してどっちが正しいかみたいにするのやめてーーー!と心の中のチャイルドミワコが地団駄を踏む。あ、地団駄踏んでるけど、そこで消耗するのもったいなくね?と、もうひとりの心の中のアダルトミワコが扇子を仰いでいる。

ほんと、どう見るか、で全然違う。わたしの境遇を残念とか哀れと思っても良いし、今からでも活かす材料に使っても良いのだ。

帰り道、母とのほかのやりとりとかも含めて、「頭の良い人の頭の悪さ」について考えていたら、これまた面白くて、電車内でほほう、となっていた。

頭の回転が早かったり、いわゆる知的に頭を使う人は、きっとひとつの言葉を元に関連付けたり多くの例を挙げたり、比較して分析する、ということが得意なのだけど、そこにあるワナの存在に気づかないとその頭の良さがアダになる頭の悪さが生じるのではないだろうか。
いつしか自分は正しいと思いがちになったり、豊富な知識が実体験の欠如を覆ってしまっていることにすら気づいていなかったり。ちょっと違う角度からものごとを見る人に怒ったり、批判された、と勘違いしたり。


いやーソクラテスは良いことを言ったなあ、とやはり先人の偉大さを思わずにはいられない。
どれだけ自分は無知であるか、ということは、やっぱり自分で気づいていかないとな。


何をまとめたかったのかよくわからなくなってしまったが、色々とやっぱり、ありがとう母。なのである。
これからも、自分の気づきを深めるために、時おり会いに行こう。
できればちゃんと、こころの軸が整っているときに。


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