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たぶん届くところには届く

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190831/k10012058531000.html?utm_int=news_contents_news-main_003

「フランスでは、作品によっては日本以上にお客さんが劇場で見てくれているという状況もあり、自分が自分の作りたい映画を掘り下げて作っていけば、それが日本映画であろうと、フランス映画であろうと、たぶん届くところには届くと思った」

是枝さんの言葉として、NHKニュースに掲載されたものである。

19時のNHKニュースの映像では、末尾の「思った」はこうなっていた。

「思って、今回、それをやった」

日本では、映画のキーマン、日本でいう「カントク」の思いや、主張は軽い。日本で重視されるのは、いうまでもなく、数字であり、名誉である。1位、金賞、優勝、そういったものが重視される。折箱の中身よりも熨斗と水引の見栄えが、正確には、そこに使われているGOLD、つまりお金が重視されるのが、日本の「文化」だ。

そんなものは「文化」ではない。いや、文化という語は明治維新後に作られた当て字なので、意味なんてどうだっていい。文化、と言いさえすれば、なんだか高尚なもののように感じる。それが日本人であり、日本の教養である。

虚構。本来、どうだってよいものだが、権力者が欲するから、しかたがなく、取り繕って来たもの。それが、現代の日本では、蔓延し、比重が大きくなってしまっている。いや、比重が大きいなんてもんじゃない。すべてが、虚構の物差しで測られる。学校の成績、大学のランク、就職先のランク、果ては配偶者の格付けまでが、どうだってよいもので測られる。

この傾向は、都会では特に顕著だ。若い人たち、「クリエイター」と呼ばれたがる人たちは、著名人の弟子になりたがり、手っ取り早く金になる仕事を求めたがり、手っ取り早く有名になりたがる。そして、手っ取り早く視聴率を稼げ、スポンサーにアピールでき、視聴者の官能を刺激する映像や映画を作る。

そうして作られた映像や映画は、あっという間に、世間の耳目を集め、そして、あっという間に忘れ去られ、捨てられる。日本の製造業と同じように、ゴミを大量に生産して捨てている。そのゴミは、折箱の表に飾られる、熨斗や水引である。ぴかぴか光る熨斗や水引につられて、消費者は、金銭を支出する。金でゴミを買い、ゴミを買うために仕事をする。

ヒドイ言葉を並べてしまったが、これが現実である。

そんな現実ではあるが、是枝さんの言葉にある「たぶん届くところには届く」ことも、また事実である。

僕は、この「たぶん届くところには届く」映画を作りたいと思っている。映画と言っても、CGの世界の中で作る映画である。

その映画で、僕はいくつかのことを表現し、伝えたい。そのために作る。

「誰かのために」「誰かの役に立つ」「やさしさ」「真実」「教養」「生きる意味」。

そういったことだ。

40年前、大学2年生の時に宣言した「コンピュータでアニメーションを作りオーケストラを演奏する」であったり、47年前、小学6年生の時に宣言した「漫画家になる」であったり、社会に出る時に宣言した「社会の役に立つ」であったり、その時々に、宣言するという行動に僕を掻き立てたものは、たぶん、そういったものだったのだろうと思っている。

都会ではなく、田舎で作る。都会の動向は眼中にはない。マイペースで作る。金をかけないで作る。ヒットだとか賞なんてどうだっていい。売れなくていい。

でも、「たぶん届くところには届く」。

これまでにいろいろやってきたことは、すべて、それらの役に立つことに、最近気がついた。

文章を読み、書き、科学し、数学し、論理的に思考し、計算機を操り、光学を修め、絵を描き、CGを描き、アニメートし、画面を作り、作曲し、演奏し、編集し、マネジメントし、分析し、外国語を操り、ネットを操り、データを操り、法律を使い、人と会い、交渉し、社会と折り合いをつけ、直観し、熟考し、決断する。

ひとりで全部できる。

でも、ひとりだと、とてつもない時間がかかってしまう。

なので、スタジオを作って、みんなでやろうとしている。

田舎で。

のんびりと。

世界の誰かのために。


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