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わたしと初彼氏と闇の高校3年の話

 小学校2年生の頃「好き」とか書いたシュガーバニーズのメモを靴箱に入れると、2日後「好きだよ」とか書いたチラシの裏紙を返してくれた、あのコウキくんとの甘酸っぱくて可愛らしい思い出は、当時のわたしたちの齢8歳というのを考慮して、彼氏だとか、お付き合いだとかにはカウントしていない。

出会ってから付き合うまで編
〜SUNNARI〜

 わたしの初彼氏は、高校1年の終わりかけに付き合い出した、同じ陸上部の幅跳び選手のある男の子だった。コイツは日本史とか民俗学とかが大好きで、各駅停車5駅分くらい彼女に向かって柳田國男について語り続けるほど柳田國男の大ファンというちょっと変わった方だったので、仮名をクニオくんとしよう。
 遡ること高校1年の夏。高跳びの選手をしていたわたしは幅跳び選手の友達と一緒に、三段跳選手の先輩の誕生日をささやかながらサプライズでお祝いしていた。
 そのとき、愛されキャラでイケメンの友達(三段跳同期選手)がさり気なく「え〜先輩いいな〜俺も先輩みたいに祝ってよ笑」と口にしていたのを機に、「おっええ度胸しとんな、ほな徹底的にやったろやないかいな」という謎の精神が生まれ、同期の短距離選手みんなでサプライズプレゼントを用意して教室でちょっとバースデーソングでも歌ってやるか、ということになった。(今思えば高校生的には全然盛大じゃないな)(※陸上部は中長距離パート以外を短距離パートとまとめて呼ぶことがあるので、祝ったのは実質、短距離、跳躍、投擲)

 そしてこの一大プロジェクト(笑)を進めるにあたり、皆で話し合ったプレゼントを買い揃えるのは、登下校にかなり大きな都心部を通ってきているわたしとクニオくんが最適ではないか、ということになった。このときはまだほぼ話したことはなかったが、2人とも人見知りをしない方なので、下見や購入のため、一緒に放課後をともにするうちに、あまり回数を重ねずともすんなりと仲良くなっていった。

 その後9月末のイケメンくんの誕生日祝いは無事にとても喜んでいただけ、成功して幕を閉じた。

 その頃にはすっかり親しくなっていたわたしたちは秋から冬にかけ、何度か放課後、また更には休日にも出会い、京都の寺社仏閣へ少し足を伸ばしたりなんかして、いわば「実質カップル」状態だった。世間的に言う、1番楽しい「出会ってから付き合うまでのステップ」のわたしたちはそのまま1月末を迎え、忘れもしない、2人で奈良の若草山山焼きを見に行った帰り、近鉄の車内、生駒駅を越えた辺りの夜景が綺麗なところで勇気を振り絞ったわたしの告白により、晴れて交際がスタートした。

始まりは終わりの開始点編
〜諸行無常〜

 前置きが長くなってしまったが、そんな感じで部内で付き合い始め、同じ狭い跳躍パートの中であるのも手伝ってウレシハズカシみたいな感じで過ごし、イジられ、そこそこに楽しく過ごしていたのだが、まあその辺の学生の付き合いなんてものの数秒で終わる。

 話は飛ぶが、我が母校には悪い癖がある。2月〜3月と5月〜6月の短期間にあらゆるイベントをこれでもかと詰め込んでくるのだ。

 そんな高校の中で初めて迎えた2回目の大忙しな2月、3年生になる年の2月のわたしは、2月末卒業する先輩方24人の記念アルバム製作担当と、3月の校内マラソン大会と、期末考査と、校外の学力テストと、数学合宿と、部活の合同合宿という、超豪華疲労モリモリスケジュール(予定)を抱えていた。(合宿類はさして苦ではない)

 1月の末、1年記念日を相手の少し不穏な雰囲気を気にしつつもめでたく祝い、2月の頭、わたしはこれまで時々していたように、クニオくんと電話をしながら、急ピッチでアルバム製作を進めていたところだった。お出かけが好きな2人だったので確か「今年の春は吉野に行きたいね」「明日香村も気になるな」なんてことを話していたような気がする。ああこの前の不穏さは体調でも悪かったのかな、これからもこの人と約束して出かけられるんだな、とホッとしていたときだった。

 「なあ、もうこの関係終わりにせぇへん?」とクニオくんが気まずそうに、でも思い切ったように勢いづいて言った。頭が真っ白になった。「部活でもやりにくいしさ」「友達に戻ろう」なんて声が聞こえてきていたように思うが、全く頭が働かない。処理速度も追いつかない。そうこうしている内に焦りでどうにか自我を取り戻し、イヤホンで会話をとり繋いだまま、『別れを切り出されたら』『カップル 冷却期間』なんて言葉をGoogle先生に打ち込み、必死に助けを乞うた。

 結果として1ヶ月ほど冷却期間を設けよう、考え直そう、1回距離を置いてみよう、とのわたしの意見が受け入れられ、気まずい冷却期間が設けられた。バレンタインの1週間前である。お前今年手作りがいいって言ってたじゃんレシピも材料も考えて揃えてしてあったのによォ〜〜〜(まあ渡したんですけどね?)(あんなもん捨てろ捨てろ)(血とか混ぜとけばよかった)(よくない)

 よく考えるとこれまでにも不穏な雰囲気はときどき受け取れていたし、彼はこういう話のときは意志がとても固いので、もうこのまま戻ることはできないと頭では理解していた。それでも露天神社に詣ったり、自分磨きをしたりと一応の足掻きはしてみた。

 まあ結果としては単刀直入に言うとなんの変化もないまま部活の合宿寸前に別れた。ちなワイら今も冷却期間と殆ど変わらず暗黙状態のままやで!なんでや!
 今、当時のスケジュール帳を見返すと3月の24日、シャーペン書きの小さな字で「さようなら」と書いてあった。おいおい3月始まりのスケジュール帳なのに初っ端から攻めてんなァ!

 それから1年くらいは心身ともにボロ雑巾みたいな状態のまま過ごしていた。これこそが「ワイ、怒涛のメンヘラ期突入編〜毎日なんで生きてるか分からんくらいこの世が辛い〜」である。(?)

ワイ、怒涛のメンヘラ期突入編
〜毎日なんで生きてるか分からんくらいこの世が辛い〜

 3月の間、1周回ってメンタルはモーマンタイだった。ただ4月になってすぐ2週間微熱とそれによる倦怠感、ボーッとした感じが止まらなくなり「ああこれやっぱキテるんだわ」と自覚しだしたのとともにすぐメンタルが逝った。いつなんどきも頭の隅に「好きだった人に嫌われた、もう二度とあの人に好いてもらえない、もう二度と親しくしてもらえない」という考えがドカッと居座っていて、現実から逃避することさえもできなかった。

 新学年が始まり、同じクラスでマウント取りたがりの友達と一緒にいるのが普段より一層辛くなって、イライラして、口汚く罵りたい衝動に駆られた。
 また、まさにこれぞ鬱!という感じの暗い気持ち(これは本当に言語化し難いけど、今生きてる人類全ての中でわたしが1番辛い目に遭っていてこれから先にこれまでの人生以上輝きなんて絶対に有り得ない、暗闇しか待っていない、苦しくて生きてる意味なんてない、といったような感覚)(もっと分かりやすく喩えると、「提出期限をとっくに過ぎた提出物に気付いた瞬間のあの感じ」が持続している感覚かな)に支配されているときもあれば、突然躁みたいに「えっ!どうでもいいじゃんそんなこと!クヨクヨなんてしてられないよ☆彡」みたいな気持ちになることも時々あった。
 特に別れてから3ヶ月くらいは本当に酷くて、布団の中は勿論、電車の中や休み時間でも、とにかく考える隙さえあれば辛い気持ちに支配され、場所を構わず涙が止まらなかった。そんな感じが続き、もともと夜型だったのがもっと悪化して、夜入眠するのが難しくなった。

 前述した2週間の微熱期間の際、流石に母に心配され、わたしは近所の内科へ連れられた。穏やかないつもの先生に、辛いことがあったということ、微熱や倦怠感が止まらないこと、夜眠れないことを話すと、先生はきっと心因性の発熱ですね、ゆっくり過ごしましょう、的なことを仰って、デパス0.5mg(エチゾラム)を10日分処方してくれた。人生お初精神安定剤である。

デパス錠(エチゾラム) おくすりのしおり
http://www.rad-ar.or.jp/siori/kekka.cgi?n=7867

 これを飲み始めてからというもの、1度だけ幻覚症状が出てしまったが、スムーズに入眠でき、日中は友達にイライラしたりすることも、辛い気持ちになって沈むことも減って、穏やかに寛容に暮らせた。そう、それはまるで眠いときのようにふわふわとしていた。眠かったのだ。四六時中、耐え難い眠さと戦っていた。


ワイ、追い地獄編
〜死ぬ気力もないのでわたしに害のある奴の方から各自消えてくれ〜

 そんなこんなで迎えた4月末、フラれた話の所にも述べたように、わたしは再び母校伝統怒涛のイベント鬼詰め月間を迎えようとしていた。
 母校は体育会系陽キャの補集合のような人が(体感)9割を占めていた。なので1年で最も白熱するイベントはワイワイ体育祭でもなければ、キラキラ文化祭でもなく、6月に丸1日をかけて全学年を上げて予選決勝まで行う本格合唱コンクールだった。
 特に3年生は流行りの曲なんかではなく、定番の難易度の超高い『レ・ミゼラブル』の劇中歌や「吹雪」(合唱組曲『蔵王』より)を歌って後輩たちに威厳を見せつけるのが伝統だった。うちのクラスはほとんど迷わず「吹雪」を選択し、朝と放課後とに練習をするようになった。
 精神安定剤で朝起きづらいのはもちろん、平生から不整脈持ちであり、極端な早起きが1番症状を呈することもあったので、朝の練習は体調的にきつい、と断って殆ど行けなかった。5月にある引退試合の地区インターハイ、都道府県インターハイのための練習時間を不整脈で潰したくなかった。ていうかしんどいし寿命縮みそうな感じするし。
 放課後は放課後で、部活を終えて移動し、晩御飯を食べるとちょうど予備校での授業が始まるようなタイムスケジュールだったので、練習のために割ける時間なんてなかった。3教科取っていたので、週3日は行けなかった。

 実はここまで述べていなかったが、あのクソ病み春休みの間にわたしは某大手予備校の春期講習を受け、そのまま入校して通年授業も取ることになっていた。中学も楽しく塾の犬を務めて高校に受かったわたしとしては、予備校生活は結構楽しいものだった。
 はたまた話は逸れるが予備校では謎の奇跡が起こり、春期講習も通年授業も夏期講習も冬期講習も直前特訓もぜ〜〜んぶ何かしらの授業でクニオくんと被ったけど、そこからそのせいで追って病んだことは別になかった。いっぺん底辺まで病んだらそのことに関しては無敵じゃんね〜〜ウケる(笑)
 今後きたる別方向からの刺客なんて微塵も知らなかった。

 閑話休題、そういう訳でわたしはクラスメイト達とみんなで力を合わせて頑張らないといけない練習をサボるクソ野郎ポジションに就任してしまった。軽音部の気がきつい女の子に虐められるようになった。面と向かって「お前来いよ、サボんなよ」と言うわけでもなく、陰でコソコソと愚痴るでもなく、敢えてわたし自身に聞こえるように大声で陰口レベルの悪口を言うようになった。具体例語録としては「練習来ん奴とかほんま死ねよ」「ほんまウザいアイツ死ねって!」「はよ死ねばいいのに〜〜」「もう誰か殺して〜〜!」みたいな感じだったような気がする。今なら、文系の癖に悪口のレパートリーが 死ね くらいしかないんかよやーい語彙弱 国弱ゥ〜wwみたいに穏やかな気持ち(?)で鼻で笑えるが、当時は いまわたしは他人に明確な殺意を持たれている、わたしはどうしようもないやつなんだ、でも練習もあれもこれもなんて沢山抱える気力なんてない、どうしよう、と本気で悩んだものだ。

 とまあこんな別の試練もスタートし、薬によってメンタル面にはプラスも折角あったのに、虐めによるマイナスで打ち消されてしまった。フィジカル面としてはまだ微熱が続いていたし、なによりただひたすら眠さが酷くて辛かった。
 前述のデパスを処方した先生が、3日ほど様子を見てまた来てくださいと仰っていたので、もう一度内科へ訪れ、かくかく云々とそのまま伝えた。すると先生は、じゃあまたデパスを処方しますが、次は0.25mgにしましょう、と仰って今度は大胆にも30日分も処方してくれた。先生、ワイが自制心残ってる臆病なメンヘラって信用してたんかなぁ、こんな量処方されたら下手しOD(オーバードーズ、薬の大量摂取)してもおかしないでほんま…。と言う訳で人生2回目の精神安定剤(大量)である。

 その後デパスを必要に応じて飲んだり飲まなかったりのまま合唱コンクール当日を迎え、予選を通過し、クラスは無事(わたしがストレス性のかなりキツイ胃痛と熱で保健室のベッドにうずくまって意識を朦朧とさせている間)に決勝で金賞を勝ちとった。

 フラれるまでのわたしにはなかった、あの鬱のような感覚はそれから常にいつもあった。そうして時々不意にものすごく酷く病んだり、薬を飲んだり、あの子に舌打ちされたりしつつも、全てのイベントを終えて2ヶ月ほどが経った。
受けたい授業でパンパンに詰めた予備校夏休みのスタートだ。勉強をしているときは、比較的よく気が紛れた。朝から晩まで自習室と授業がある教室とを行き来して、色んな問題を考えて、ノートに書いていく作業は、まだ夏休みだから、学力を伸ばす期間はあるから、と焦りもそこまでなく、少し楽しかった。

 しかし8月のある日、電車でいつものように予備校へ向かっていたときだった。車内にいる人間の、リンスや香水、柔軟剤などの芳香がいつもと比べ物にならないくらいにキツく感じられて、頭がクラクラし、酷い吐き気も催した。それからの毎日、その日ほどの辛さはないけれど、嗅覚過敏的症状は収まらず、マスクが手放せなくなった。(今も体調や精神衛生が相当良くない限り人に近づきたくないし、電車ではだいたいマスクを着用している)(なんなら自分の髪の毛の匂いもきつくておろしてられないことかある)

 あまりにもこれがキツかったので、多分これは精神の問題だろうと、親に心療内科へ受診したいと申し出た。まあそれはそれはめっちゃくちゃに反対された。もともと前から わたし発達障害グレーかも、とか言っても「絶対にそんなこと人に言いなや」とか言うような人だったので何となくそんな気はしていた。

 いち医療学生として、いや、いち人間としての個人の見解を言うけれど、精神障害も、発達障害も、決して恥ずかしいものなんかではない。隠して周囲に馴染ませようと自己流でどうにかしようとするより、きちんとした診察を受けて、プロや周囲によって本人と環境を整備されて生活に馴染ませたほうが良いと思うのだ。そんなことで離れていく友人や周囲の人間たちなんて所詮その程度の人なのだから、ふるいにかけて切り捨てる気持ちで距離を置いたって全然構わないと思う。

 つい少し熱く語ってしまったが、親に心療内科の受診を反対されたわたしは既に、マスクをつけていた状態でも耐えるには限界が来ていたし、24時間ずっと脳内に居座っているこの辛い感覚をどうにかして打破したいと思っていた。(と、思えるくらいには4月と比べて元気でしたね)

ワイ、ちゃんと心療内科を受診する編
〜受験ダイエット第1弾〜

 と言う訳で!夏休みが明けた時分、既に部活を引退したわたしには、自由な時間が案外あった。ネットで入念に調べ、学校の近くに良いクリニックを見つけ出した。ここで言うわたしの「良い」とは

内科もやっている
 →万が一後から親にバレたときに風邪をひいていた、などの言い訳が使える
クチコミが良い
 →処方が悪くて薬漬け(薬無しに普通に生きられなくなるいわば依存状態)にされてしまうケースは残念ながら現実にあるようで、先生が真摯で「ヤバい」処方をしない人であると書かれている
入口が目立たない
 →先ほどあれだけ精神障害は恥ずかしくない!と熱く語ったが、同じ学校の人であるクニオくんとの失恋をきっかけに病んだというのを知人に説明したくなかったために、通院を周囲にはバレないようにしたかった(学校の近くだからね)

 リサーチを終えたわたしは次に資金繰りを図った。バイトが禁止の学校で、なおかつ我が家は定額お小遣い制でなく、お金はほしいとき逐一目的(使い道)を説明して貰って使うスタイルだった。定額制より贅沢に使えるが、プライバシーもクソもない。
 そこでわたしが出した案は「予備校へ行くときに貰う晩ごはん代を削り、診療費に割く」だ。(少しずつ削って貯める発想がなかった)毎朝お茶代も含め500円〜700円が支給されており、このことに関してはお釣りやレシートを会計報告して出さねばならない、ということはなかったのでいい抜け穴だった。また、わたしの済む市(=心療内科のある市)は18歳以下の子供の診療費が(処方箋お薬代も含め)500円ポッキリだという素晴らしい政策をとっていた。ありがと〜〜市長まじありがと〜〜。
 そこそこ体格のカッチリした胃袋牛級元運動部18歳高校生のわたしは、流石に晩ごはん抜きで夜まで勉強することはできないなと考えた。そこで、前日夜、親の見ていない間に手頃なサイズのタッパーにフルーツグラノーラを詰め込み、ラップで包んだスプーンを持ちだして晩御飯にした。結局3回通院したので3回晩御飯がグラノーラになった。ちょっと痩せた。

 心療内科の方はというと、ちょっと変わったおじさん先生が初回からゆっくり、且つかなり突っ込んで話を聞いてくれ、診察室で今までにありえなかったくらい大泣きしたのを覚えている。家や外で親、友達に対する見られたくなさと心配させたくなさから堂々と泣けることは少なく、いつも布団で1人で思い詰め、負のループに入り、声を殺してシクシクしていた。だから妙にスッキリとし、あなたは悪くないよ、的なニュアンスの言葉も掛けてもらえたので診療だけでもかなり精神衛生的に回復へ進んだ気がする。
 その後3回に亘る診療で、自律神経などの働きを調べたりしたが、どうも異常はないようだった。病名こそつかなかったが、わたしの抱える症状と憂鬱にもちゃんと精神安定剤が処方され、このクリニックではレキソタン、ランドセンを7日分、7日分、14日分の計28日分が出された。因みに聞かれたので春にかかった内科に30日分一気に処方された話をしたら心療内科の先生めちゃめちゃ怒ってた。(ちゃんと経緯や0.25mgに抑えてもらったことを話すと納得したが、そういう処方で薬に依存して心療内科にかかる人もいるらしく激高に至ったらしい。)

レキソタン錠(プロマゼパム)おくすりのしおりhttp://www.rad-ar.or.jp/siori/kekka.cgi?n=9834

ランドセン錠(クロナゼパム)おくすりのしおり
http://www.rad-ar.or.jp/siori/kekka.cgi?n=13398

 3回の治療を経てわたしは、心療内科にかかりたいと思うほど暗い気持ちになることはなくなってきた。現在に至るまで再びあの地へ訪れたことはない。いつもデフォルト闇持ちだけど、メンタル逝った話はここで一旦終わる。

ワイ、大学受験の荒波に臨む編(蛇足)
〜受験ダイエット第2弾〜

 センター試験が終わった頃、母校の3年生はセンターリサーチの結果を親に見せつけながら、厳しいです、とかいけそうです、とかこの教科やばいです、とかをヤイヤイ言う三者面談(進路面談)という恐ろしい(※個人の感想です)行事があった。1、2年と専門学校を志し続け、3年生になる年のはじめくらいに唐突に「あ、やっぱ大学受ける!」とシフトチェンジしたため(実はクニオくんが阪大受けるって言ったので『すげぇ!ほなワイも頑張ろかな!』って変えたアホみたいな理由)(なおクニオくんはいま阪大でない)、正直どアホだった。文系クラスで「化学は苦手だから…」ととった地学基礎は、医療系の学部を志す場合、本当に入試で使い物にならなかったため、3年生になってから学校の補習+予備校の授業で理系生物(基礎なし)を学びだすという暴挙も手伝って、ギリギリまでセンター形式の総合得点率が50%ちょいだった気がする。特に志望校の配点では7割以上をセンターが占めていたため、わたしには厳しく、センターリサーチはE判定だった。もちろん担任には(気持ち)フルボッコにされた。「あさこさんはねぇ…頑張ってはいるんだけどどうしてこんなに成績が伸びないんでしょうね〜」と言われたことを今でもはっきり覚えている。日頃の努力を認める姿勢は見せているものの、春と比べて50点くらいマシになった英語も、ゼロから始めて78/100をとった生物も、点数の伸びに全く気づいてもらえず蔑ろにされたようだった。

 この件があり、母が父にわたしの成績が芳しくないことを話すと、今までの人生で全く「勉強しなさい」と一切言ってきたことのなかった父が「このままじゃキツいんなら、食べる間も惜しむくらいもっと勉強しなさい」というニュアンスのことを言ってきた。馬鹿なので腹が立ってそれから入試までの晩ごはんを毎日勉強しながらプロテインバーで済ませてご飯のために時間を取らないというダイナミックな対応に出ました。

(自慢タイムです)
まあ結果から言うと センター:二次 が 800:300 の中センターで7割切り(最低点)を取ったにも関わらず二次試験で9割弱(最高点だし、ここ5年で歴代最高)をとって無事に合格して当日志望校だった大学に入りました。(総合点は下から2番くらいだったけど)
そして身長162cm体重52kg体脂肪率10%の女型細マッチョが爆誕したのだった。


 最近ではクニオくんのことで辛くなることはもうほとんどない。大きな魚を逃したなぁちくしょう!いや、でもあんなとこもあったから別れて正解だったのかもな、と楽観的に少し離れた視点から考えられるようになった。もちろん今でも別イベントで落ち込んだり悩んだり泣いたりネガティブな気持ちが前面に押し出されたりすることはめちゃくちゃある。
 この一連の苦労によってメンタルは、筋のように負荷で鍛えられて強くなったという訳ではなく、一度落として割れた陶器をパズルのように繋ぎ合わせ、もう一度ほぼ元の形に近づけさせたようなものなので、単刀直入にいえば脆く、崩れやすくなった。
 しかしわたしはおよそ1年の歳月をかけて自分のメンタルが人間関係コンボに超弱いという特性も知ったし、技崩壊したメンタルの再修復の仕方を手探りで学び、どうにか自力で回復する術を身につけた。まだまだ回復するには時間がかかるし、またいつか失恋どころではないようなイベントで今回以上にメンタルがやられ、心療内科や精神科にかかるかもしれない。しかし一度逝ったメンタルを回復させたというかけがえのない成功体験をわたしはもっているので、自信と安心感を感じられている。理想の完全形ではないけれど、いま、そこそこに幸せです。

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