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夜に爪を切る


「できれば、帰ってきてお父さんの顔を見ておいた方がいいよ」
梅雨入りの報せを各々のニュースが謳う時期だった。母からそんな連絡が届いたのは。

ちょうど2023年を迎える直前、父は医師からステージ4の癌宣告を受けた。帰省していた私に、「俺癌になったわ!」なんて明るい口調で、ふざけたように語る姿は昨日のことのように思い出せる。
それから1年半の間。何度か帰って見ても、今までと変わらぬ様子で仕事に励み、趣味のゴルフにも没頭し、禁忌なはずの酒まで浴びるように飲む姿は、私を完璧に油断させていた。

母からの連絡を受けて実家に帰ることにした日は、その前の晩の大雨で新幹線が運休していた。渋々と苦手な飛行機に乗り込んで、前日までの仕事も相まってヘトヘトの体で父の入院先の病院に向かう。
具合が良くないと言っても、母が大袈裟なだけではないのか、本当にこんな状況で帰らねばならなかったのか、とかいう薄情な気持ちがなかったと言ってしまっては嘘になる。

ただ、苦痛に顔を歪めた、弱々しくなってしまった父の姿は、私のそんな考えを痺れるくらい後悔させるには十分だった。

映画やドラマでは、はたまた書籍や漫画の画面や紙面の向こうの世界の中では、感動ものの医療ドラマの中では、病気に倒れて苦しむ姿なんて見慣れたものだったかもしれない。
しかし現実はいつだって、作り物のようにしっかりと見れたものじゃないのだ。
涙を堪えるとき、目頭が熱くなるだけじゃなくて、身体中の全てのパーツが強張る。下唇なんて噛んでられない。瞬きをすると落ちてしまうそれを堪えるように、なんで堪えなきゃいけないのかもわからないけど、父に見られることがいけないことな気がして、少しだけ上を向く。なにが悲しくて。なにが辛くて泣くのか、今になっても言葉にするのは難しい感情だった。

堪えて堪えて、病室に2人になった瞬間溢れ出た涙を見て、父も顔をぐっとしかめて、泣いた。
父の涙をはっきりと見るのは30年間生きてきて、はじめてのことだった。
父に差し出されたティッシュで涙を拭って、鼻を噛む。
「気持ちいい音が出ていいな」と父は泣きながら笑った。


そこからすぐに仕事の長期間休みをもらって、約2週間、最後のひとときを父と過ごした。
兄も帰ってきて、家族4人病室に揃う。
ハーゲンダッツが食べたいという父に買ってくる。2口しか食べれなくて、あとは食べろとみんなで回して食べる。きつそうな腹水の溜まったお腹をさすると怒られるから、兄妹で不器用な手つきで父の手のひらをマッサージして。お前ら毎日来て暇なんか、と憎まれ口を叩く父を「心配なんよ!」と諌めて。
私と兄の手を握り、「2人で力を合わせて頑張れよ」と、父はもう一度だけ泣いた。

父の意識が朦朧としてきたと連絡を受けたのは、父が旅立つ4日前だった。
ほとんど会話が難しい中、私たち家族は朝も夜中も交代で付き添った。視線もしっかりしない中、力無く半分空いた瞼。痛み止めも負担になるからと打てず、ずっと苦しく声をあげる姿は、思い出しても心がじくじくと痛む。
もう十分頑張ったよ、もう頑張らなくていいんだよ。と私も兄も母も、みんなが声をかけた。
天邪鬼で頑固な父は、それでもきっと、意地でも頑張ったのだろう。いつ止まってもおかしくないと宣告された心臓は、小さくもしっかりと動き繋いだ。

難しい性格の父親だった。
仕事が何よりも好きと言った様子の仕事人間で、朝から夜まで仕事をするもんだから、正直私は幼い頃から父と遊んだような記憶があまりない。
素直じゃないから父の日や誕生日にあげたものは、必ず難癖をつけた。口をひらけば憎まれ口と文句。やってといったことはやらなくて、やらないでといったことをやるような人で。ありがとうは言えても、ごめんなさいが絶対に言えない人だと母はよく言っていた。誰の言うことも聞かない、頑固で偏屈な人だった。

だから、病院で最後まで洗濯に持って帰るのも拒んだぼろぼろのほつれたタオルが、私が遥か昔に買ってあげたゴルフ用のスポーツタオルだったことだとか、いつも目が離れているだとか平安時代なら美人だった、だとか私には悪口ばかり言っていたくせに、「綺麗になったような…」なんて塩らしいラインを送ってきたりだとかする様子は、なんだからしくなくて困惑すらした。

絵に描いたような仲良し親子では決してなかった。だけど、素直じゃない父が私を気にかけてくれているのは十分すぎるほどわかっていたし、感謝していた。

私と病室でふたりきりになったとき、父は掠れた絞り出した声で、途切れ途切れの意識の中、言うのだ。
「ごめんな、ごめんな」
「不幸になるかもしれんな、ごめんな」
絶対に言えないはずの「ごめんなさい」をこんな時に使わないでよ、不幸になるわけないよ、大丈夫だよ。思うことはたくさんあったのに、うまく言葉にできなかった。返事の代わりに手のひらを強く握る。もう大人になった私からしても、大きくて、逞しい、『お父さん』の手を握る。

父が死ぬ瞬間。
私はそばにいた。
母と兄が朝食を買いに病院を出たその数分の間に、父の呼吸は止まった。
駆けつけた看護師さんとお医者さんが必死に蘇生を試みる。白目を剥いた父は、真っ黒の血の混じった痰をたくさん吐いた。
思い出したら寒気のするくらい、恐ろしい光景だった。

「8時42分、御臨終です」
さながらドラマの台詞のようなお医者さんの言葉に、私は戸惑いをもって頷く返事しかできなかった。
泣き喚いて父の体に縋ったり、言葉なく涙を流したり、そんなものだと思っていた。私が知ってる死の瞬間は、そんなものだったはずなのだ。
現実は、父の死を前に、私は何もできなかった。
数秒間。現実にするとほんの数秒間であろう間が、何十分にも感じた。その長い長い時間の後、意思もなく父の頬に手を添えて、まだ暖かいその温度を感じ取った瞬間、なにかが崩れていくように、涙が出た。
父は、もういなくなってしまったのだ。

戻ってきた母が涙を流す。
「ほんのちょっと、ほんのちょっと出てただけなんです」看護師さんに泣きながらも平静を取り繕って話すそんな言葉が、震えた口調が、よりここは現実なんだと意識させる。
兄も、父に駆け寄って顔を覗き見て、開きっぱなしの目を閉じさせた。

「お疲れ様でした」「がんばったね」「ありがとうね」先生から、看護師さんから、母や兄から、父にかけられる労いの言葉を聞きながら、私は奥歯を噛み締めて、鼻を啜りながら、待っていた。
父が数週間前のようにティッシュを差し出してくるのを。それで鼻を噛んで、良い音だなって笑ってくれるのを。ありえもしない期待をもって、待ってしまっていた。
その反面、みんなの言葉をやけに他人事のように聞きながら、父はもうここにいないんだよ、いなくなってしまったんだよ、と諭すように冷静に思う。

そこからはもう作業のように淡々と、目眩く日々は過ぎて行った。
喪主である母と長男である兄は私なんかより忙しく、さらに短い梅雨の期間を過ごしたように思う。

父がいなくなって初めて、父の知人や友人と会って言葉を交わした。
知らない父のやんちゃな一面をたくさん教えてくれた。それを揶揄うことも、諌めることもできない今になって聞くことに、虚しさもあったけれど、嬉しかった。
父は悔いのない人生を、きっと送っていたのだ。

お通夜も葬式も、驚くほど沢山の人が来た。大勢の人に泣いてもらって、送ってもらえた父は、それを知って、その様子を見て何を思うだろう。
葬式を迎える前の夜、眠っているように安らかな顔の父を見ながら、死んだら人はまだ現世に残ってるんだろうか、と兄に問うと、
「親父はせっかちだからもう行っちまったよ」と笑った。
いびきがうるさくて父のそばで寝るのはずっと嫌だった。でもその日は本当に静かで、兄の言う通り、ああもう本当に行ってしまったんだなと思った。

夜に爪を切ると親の死に目に会えないと、幼い頃祖母に言われた記憶がある。
実家から帰ってきたその日の夜、私は伸び切った爪を切った。梅雨の間、切る暇もなかった爪を。
生きている、生きていた父の手に、頬に、触れていた爪を切る。

パチン、と音がするたび、仕事柄これでもかというほど綺麗に切り揃えられた、
父の深爪の指を、思い出す。

もうあの逞しくて大きな手に触れることもできないのだなと思うと、また少し、涙がこぼれた。視界が歪んで、私まで深爪になった指を見て、「お疲れ様」と、心の底から思う。
親の死に目に会えた私だから、いつ爪を切ったってかまわないだろう。そんな偏屈な理屈を並べる自分が、ちょっと父に似ていて、こんなとこにまだ父はいたんだなあ、と思うと、笑みが溢れた。

明日も明後日も予報は晴れで。
私も父も、たくさん泣いた、梅雨が明けようとしていた。

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