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【前編】ボーカロイド自殺論——ボーカロイドにおける自殺の位相

要約

 ボーカロイドの楽曲には、自殺をテーマとした曲が数多く存在する。本論は、Ayase「ラストリゾート」、和田たけあき(くらげP)「わたしのアール」、みきとP「少女レイ」の3曲に焦点を当て、これらの楽曲の歌詞において自殺がいかにして表現されているかを概観する。これらの楽曲において自殺の背景や置かれている状況などはそれぞれ異なっているが、一方でいくつか共通の要素を取り出すことができる。それは、「自殺者の声の不在」と「助けを求められるような他者の不在」の二つの不在であり、いずれも現代における自殺を考える上で避けてはとおれない重要な問題である。ボーカロイドは、現実社会における自殺の問題を表象する——。

(※以上のとおり、自殺というセンシティブなテーマを扱っておりますので、ご理解の上閲覧ください。)


序論:ボーカロイドにおける自殺の位相

 ボーカロイドの楽曲には、自殺をテーマとした曲が多くある。kemu「人生リセットボタン」、カンザキイオリ「あの夏が飽和する」、ユリイ・カノン「あしたは死ぬことにした」、MATERU「うみなおし」など、一つ一つ挙げるときりがないが、シーンの中心的なボカロPによる楽曲やミリオンを達成しているような知名度のある楽曲に限ってみてもその数は決して少なくない。最近ではAyaseが手掛けた大ヒット曲YOASOBI「夜に駆ける」のミュージックビデオが自殺を想起させるという理由でYouTubeの視聴に年齢制限がかかったことも一部で話題となった。
 ボーカロイドの楽曲に自殺をテーマにした楽曲が多くなっている原因のひとつには、「初音ミクという生死と関係のない存在が歌を歌っている」という構図がある。ボーカロイドは自身の有するヴァーチャル性ゆえに人間が必然的に抱える生死という問題から自由でいられるのであり、生死の自由な表現が可能となるのである。

初音ミクが、「私は死ぬの?」と自問自答する。本来なら「死」など関係ない、バーチャルなキャラクターだからこそ、それを通して「死とは何か?」という根源的な問いについて考えを深めることができる。そこから物語が生まれる。

柴那典『初音ミクはなぜ世界を変えたのか』p.236

 だが、ボカロにおいて自殺は重要なテーマであるのにもかかわらず、「ボカロにおける自殺」を取り上げた批評・論考等は管見の限り存在せず、あっても単体の楽曲紹介(あるいは歌詞解釈)レベルにとどまっている。そもそも、複数のボカロ楽曲における歌詞を並立的に考察する、複数の楽曲に共通するテーマを分析する、といったいわば「ヨコ」の視点での論考自体が少ない状況にあるように見受けられる(注1)(注2)。本論では、ボカロを代表する3曲を取り上げ、これらの楽曲で自殺がどのように歌われているのかを歌詞に着目して明らかにし、それらの特徴を整理する。そうすることで、ボーカロイドにおいて自殺がいかに表現されているかの端緒を提示することができればと思っている。

 ただし、歌詞の考察には注意すべき点がある。それは、歌詞の意味をどう捉えるかという歌詞の解釈をめぐる問題である。本論に即していえば、歌詞のどの表現が自殺を表現していると解することができるのかという問題である。「自殺」と一言で言っても、それが直接的に描写されているとは限らず、多分に比喩的な場合もあるからだ。実際、YouTubeのコメントでは、あらゆる歌詞を自殺の暗喩だと曲解するような「なんでも自殺の歌にしてしまう人」が揶揄されていることもある。つまり自殺の歌であると外から客観的に判断することは難しく、どこまでも解釈問題となってしまう。高台から海に飛び込むシーンをみて、「これは自殺を意味している」と言う人もいれば「束縛からの自由のメタファーだ」と考える人もいる。
 作者自身が「この歌は自殺について歌った歌である」と明言していない場合において、ある曲を自殺の曲だと認めるのには乗り越えねばならない様々な困難がつきまとう。そこで、本論で取り上げる楽曲は作者による「自殺をテーマにした作品だ」という類の自己言及があった曲に限定する。もちろんこうした作者の解釈を重視するアプローチにも問題はあるが(ロラン・バルト以降、作者の作品解釈における特権性を無批判に信奉することはもはや不可能に近い。)、本論ではとりあえずの解決として作者が歌詞に込めた意図を一旦引き受けることとしたい。

 本論で取り上げた楽曲は、Ayaseの「ラストリゾート」、和田たけあき(くらげP)の「わたしのアール」、みきとPの「少女レイ」である。特にシーン全体への影響力が大きい曲を取り上げたつもりである(注3)が、ここで取り上げた楽曲は広大なボカロ界のほんの一部にすぎず、本分析もまた広大なボカロ界のごくごく一部分を切り取ったものにすぎないことを改めて付言しておく。

ラストリゾート:逃げ場のない世界から逃れるために

 ラストリゾートは2019年にAyaseによって発表された楽曲であり、発表から1年で230万回再生を達成するなど彼の名を広く知らしめることとなった1曲である。自身、Twitterで同曲のテーマを「自殺」、曲のストーリーを「後悔と絶望に呑まれて全てを諦めてしまったお話」と述べている。

 「ラストリゾート」=「最後の手段」として「終わりにしようか」と自殺を決行する本楽曲であるが、曲の前半の歌詞に着目すると、「嗚呼リンスー切れてたんだ 洗濯も溜まってたんだ」という一節が目を惹く。生死、自殺、絶望という暗いイメージの中で、実に日常的な描写が飛び込んでくる。リンスーが切れる、洗濯が溜まる、という生活にごくごく普通にありふれた情景が歌われることは、この曲の主人公が遠くの抽象的な誰かでなく、あなたでもありうるということを、具体的な一人の人間であるということを突きつける。
 こうした細かい生活の描写が歌われる一方、自殺に至る明確な理由や当人の置かれている状況、あるいは社会的背景は一切歌われない。主人公は追い詰められ、逃げ場のない世界で絶望し、そんな逃げ場のない世界からの「逃避行」を図る。だが、そこに自殺の背景、社会的なものは不在である。
 さらに、主人公の心情として特徴的なのが「あきらめ」の感情である。「まあもういっか」「此処までだって笑った」「歩き疲れたところで終わりにしようか」「怠惰がこっちを見て笑った」「何でもいいよもういいよ」——これらのフレーズから示唆されるのは、この曲の主人公の生へのは半ば嘲笑的なあきらめである。逃げ場のない世界で絶望する中で、主人公はここまでだと笑う。そのあきらめは外見的には実に冷静で、自暴自棄的な絶望とは無縁だ。「何でもいいよもういいよ」という生の放棄には、冷ややかなペシミズムが充填している。絶望の中にありながら、どこか覚めた目をして、自分を見つめている。そのまなざしは、どこか他人事のように自分の人生を眺める客観的な視線である。

 主人公の絶望は、果たして誰にも届くことはなく、「これでよかったんだ」と言い聞かせるように繰り返し、ついには終わりを迎える。「散々だって嘆い」ても、「何回だって憂い」ても、彼の叫びは誰にも届かない。「宛名のない助けは届か」ない——主人公には、助けを求めることのできる、助けてくれる具体的な他者はいなかった。ただ、絶望、苦しみを叫ぶことしかできなかった。この物語に具体的な主人公を取り巻く状況や社会的なものが欠けているように、主人公を救いうる具体的な他者とのつながりもまた欠如している(そもそもにおいて、この楽曲には一切の他者が存在しない)。ラストリゾートという物語においては、「宛名のない助け」は誰にも届くことなく、悲劇的な結末を迎えてしまった。だが、この結末は決してフィクションの中だけの話ではない。この現代社会で、果たして「宛名のない助け」を救いあげることが、あるいは「宛名のない助け」を生まないように助け合うことが、どれだけ実現できているだろうか。

わたしのアール:「誰にも邪魔されない」ゆえの結末

 わたしのアールは2018年にリリースされた和田たけあき(くらげP)による根強い人気を誇る楽曲であり、2023年3月には、YouTubeの再生回数が1000万回を達成している。同楽曲の内容について、和田たけあき氏は、若者のカジュアルに死にたいと言ってしまう感覚に一方で違和感を覚えつつも他方で自身の孤独な感情と照らして「そういう気分になるのもわかるなあという気持ち」もあると話しており、「自身が感じていた「孤独」と、若者のカジュアルに「死にたい」と言う感覚その両方をストーリーテリングの妙で聴かせる」楽曲となっている。

 「ストーリーテリング」と述べたように、本楽曲は明確に物語の構造を有している。主人公は自殺しようと学校の屋上を訪れる。だが、そこにはすでに先客がおり、三つ編みの女の子、背の低い女の子、黄色いカーディガンの子が自殺しようとしているところを目撃する。主人公は、彼女らに「先を越されるのが、なんとなく癪だった」ゆえ、「ねえ、やめなよ」と声をかける。彼女らは主人公に自分の置かれた境遇や辛さを語り、自殺することを思いとどまる。そうして他人の自殺を思いとどまらせた後、主人公は誰にも邪魔されることなく、自殺を決行する。

 ラストリゾートの歌詞と対照的に、わたしのアールでは「三つ編み」「背の低い」「黄色いカーディガン」といったように顔の見える他者が登場する。そうして、この抽象的でなく具体的な他者ははっきりと自殺の原因を語る。「運命の人だった。 どうしても愛されたかった」、「無視されて、奪われて、 居場所がないんだ」、「うちに帰るたびに、増え続ける痣を 消し去ってしまうため ここに来たの」——彼女らの苦しみは言葉にされ、自殺を試みるに至る苦しみが具体的に明かされる。
 一方で、主人公の苦しみそれ自体が語られることはない。主人公の苦しみは上のように語られる他者の苦しみと比較して言及されるにすぎず、自身の苦しみはあくまで間接的に示唆しうるにとどまる。

ふざけんな!そんなことくらいで
わたしの先を越そうだなんて!
欲しいものが手に入らないなんて
奪われたことすらないくせに!

ふざけんな!そんなことくらいで
わたしの先を越そうだなんて!
それでも、うちでは愛されて あたたかいごはんもあるんでしょ?

和田たけあき(くらげP)「わたしのアール」

失恋やクラスでの孤独を語る他者に対し、主人公はこう思いを抱く。これらの描写から、彼女が「奪われる」という苦しみ、「家庭」での苦しみに苛まれていることはわかるものの、そういった苦しみが本人の口から語られるわけではない。

そうやって、何人かに声をかけて
追い返して
わたし自身の痛みは誰にも言えないまま

和田たけあき(くらげP)「わたしのアール」

自殺しにきた他者とのやり取りの後に挿入されている上の一節は、そんな主人公の思いを赤裸々に示している。他者の苦しみが克明に語られる一方で、彼女は自身の苦しみを誰にも言えずに苦しんでいる。苦しみは誰にも共有されることなく、物語はバッドエンドを迎える。

今日こそは、誰もいない。
わたしひとりだけ
誰にも邪魔されない
邪魔してはくれない。
カーディガンは脱いで
三つ編みをほどいて
背の低いわたしは
今から飛びます

和田たけあき(くらげP)「わたしのアール」

これまで屋上に現れた他者は、主人公が「邪魔」することによって自殺を思いとどまることができた。だが、主人公には自殺を「邪魔」してくれるような他者は現れない。誰も彼女の自殺を邪魔してくれない。自分の苦しみを誰にも打ち明けることもできず、誰にも自殺を止められることなく、彼女はついに自殺を決行するに至るのである(注4)。

少女レイ:「透明な君」の声は届かない

 最後に、みきとPが2018年にリリースした夏らしい爽やかなサウンドと暗く深い世界観が展開される歌詞が同居する「少女レイ」を取り上げたい。
同楽曲は、同性愛やいじめの問題を描いた1990年代のテレビドラマ「人間・失格~たとえばぼくが死んだら」からインスパイアを受けて作成されたといい、気を引きたいがために想い人をいじめるという歪んだ愛情が悲劇的な結末を迎えるという本楽曲のストーリーは、多分に同テレビドラマからの影響を受けている。楽曲が爽やかなアコースティックサウンドであるのも、同テレビドラマからの影響であるとのことで、劇中歌のSimon & GarfunkelのA Hazy Shade of Winterから着想を得てのことであるという。

 さて、この楽曲は上の2曲とは異なり、自殺の被害者(=自殺してしまう当人)ではなく、自殺の加害者視点で物語が進行する。加害者は想い人がいじめのターゲットとなるように仕掛け、想い人に助けを求められることを望む。だが、その一方で、自殺者の声が不在であるという点から見れば、上の2曲との共通点が浮かび上がる。この曲で自殺者の心情は一切語られず、どのような苦しみに苛まれていたかは明らかにされない。言ってしまえば、自殺の原因の本当のところすら自明ではなく、彼女が生を絶った原因は必ずしも加害者のせいではないのかもしれない。ここにあるのは生者と死者の不均衡であり、被害者が死人に口無し状態であるのに対し、加害者のナルシスティックなエゴイズムのみが語られるという言説の対照性である。「透明な君は僕を指差していた」とあるが、「君」は透明なまま、具体的な言葉や姿を持たないままなのである。

 上2曲との対比で言うと、自殺の仕方もまた特徴的である。上の2曲が飛び降り自殺であり、自殺を決心するまでの逡巡が(やや遠回しにではあるものの)みられるのに対し、同楽曲は踏切での自殺であり、その瞬間は唐突に訪れる(実際、同曲は自殺の描写から始まる)。その意味で、少女レイの自殺は明確に意思をもっての自殺と言うよりは、ふと、境界線を越えてしまうような自殺であるといえるかもしれない。

そう 君が悪いんだよ 僕だけを見ててよ
そう 君の苦しみ 助けが欲しいだろ

みきとP「少女レイ」

気を引きたいがゆえに自殺のターゲットになるよう仕向けた加害者の思惑は果たされることなく、物語は絶望的な結末を迎える。結局のところ、加害者の思い描いていたナルシスティックな妄想は実現せず、被害者は加害者に助けを求めることなく命を落とす。ここにあるのは、加害者の著しいまでの想像力の欠如であり、助けを求めることがどれだけ困難なことであるか、加害者は全くもって理解していない。その意味では、上2曲同様、この曲においても被害者が助けを求められるような他者は不在なのであり、誰にも本当の気持ちを打ち明けることができないまま、彼女は踏切へと飛び出してしまうのである。

結論に代えて:3曲における「二つの不在」

 以上、自殺をテーマとした3曲において、いかに自殺が歌われているかを概観してきた。自殺の背景や置かれている状況などはそれぞれ異なっているが、一方でいくつかの共通の要素を取り出すこともできる。それは、「自殺者の声の不在(語られない自殺者の苦しみ)」と「助けを求められるような他者の不在」であり、いずれも現実社会においてまさに問題となっていることである。
 前者は自殺をめぐる研究(ひいては自殺の理解全般)に横たわる大きな課題であり、明確な自殺原因というものがそもそも存在すると言えるのか、あるいはその自殺原因は結局のところ個別具体的な状況に依存するのであり、それを客観的に把握することは困難なのではないか、といった課題である。ここまで見てきた3曲における自殺者の声の不在は、こうした実際の課題を如実に反映していると言えよう。自殺の原因は単純に一言で言語化できるようなものでは決してないし、死者の思いを推しはかり独断的に自殺原因を特定しようとすることは暴力的な行為となり得る。昨今の芸能人の自殺をめぐる報道が明らかにしているのは、この暴力の危険性であり、勝手に憶測した自殺原因をことさら強調することは、自殺者や親族の尊厳を踏みにじる行為であることはもちろん、同じ悩みを抱える人々に自殺という手段を意識させてしまうことにもつながりかねない。自殺者の置かれている苦悩や状況が一切明かされない「ラストリゾート」、自殺を回避する具体的な他者が苦悩を赤裸々に語るのと対照的に自殺者自身の痛みが語られない「わたしのアール」、あるいは加害者視点で物語が進行することによって自殺者視点が透明化する「少女レイ」——これらは、外から客観的に自殺の原因を特定することの難しさ、自殺者の本当の思いや苦痛を掬い上げることの難しさを浮き彫りにしていると言えよう。
 後者は救いを求められるような他者の存在は自殺を防ぐための大きな防波堤となりうるという社会一般にも広く認識されている自明な事実に関わる。多くの研究が明らかにしているように、相談相手のいない(または少ない)者は抑うつ症状を有するリスクや症状の程度が高く、自分の苦悩を相談できる相手の存在は大きな自殺予防因子となる(注5)。他者自体が抹消されている「ラストリゾート」、他者から相談されながらも自分には相談相手がいなかった「わたしのアール」、信頼できたはずの相談相手が牙をむき孤独に陥る「少女レイ」——このいずれにおいても相談できる相手としての具体的他者は不在であり、ゆえに彼らは命を落とすこととなってしまった。現在、様々な相談窓口が設けられ、ゲートキーパーの役割が重視されるなど、自殺防止のために相談できる体制の構築が進められているが、それでも、相談することのハードルは高いと感じる人も多く、未だ課題は山積している。

 逃げ場のない世界から逃れるために、誰にも邪魔されなかったがために、エゴイスティックな愛憎ゆえに、彼らは命を落とす。自分の悩みを誰にも打ち明けられず、苦しみ、自ら命を絶つ。だが、この悲劇は、絶対に現実に繰り返されてはならない。『自殺の思想史』においてジェニファー・マイケル・ヘクトが主張しているように、ただ生きることは他者を生かす助けになるのであり、そうして将来の自分に対する責任は果たされる。
 だが、同時に同書が示しているように、現代社会において、自殺に反対する首尾一貫した論理を見つけ出すことは難しい。「神の死」を経た現代社会において、自殺をする自由、権利が擁護されるようになり、古い世界ではいくつもあった自殺を止める手段は失われつつある。ここまで、ボーカロイドにおける自殺の表象が現代社会の問題の写し鏡であることを明らかにしてきたが、であるとするならば、自殺をいかにして防止するのかという次の問題が浮上してくる。果たして、ボーカロイドは単に自殺を現代の問題として表象するのみなのだろうか。結論を先んじて言えば、否、ボーカロイドは自殺をただ表象するのみならず、きっぱりと自殺に反対するようなメッセージを打ち出している。

 でも、どうやって。自殺が自由だと、権利だと擁護する意見が蔓延る現代社会で、どうやって自殺に反対するのか。次回、後編では、ボーカロイドが自殺を防ぐためのどのようなメッセージを発しているかについて論じていく。


(※後編に続く)


脚注

(注1)実際、ボカロをめぐる批評はどちらかというと「初音ミク」というヴァーチャル性をどう捉えるかという一種の認識論・存在論的議論や、そこから派生する二次的な文化的拡張の問題(文化論・技術論的議論)に重きを置かれているように見受けられる。
(注2)鮎川ぱて『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』は貴重な例外である。言わずもがな、本論も鮎川氏の刺戟的な議論に大きく影響を受けている。
(注3)3曲の公式MVのYouTubeでの再生回数を足し上げると約6,000万回となる(2023年12月現在)。
(注4)本論では、三つ編みの子、背の低い子、黄色いカーディガンの子の三者を文字通り他者として解釈したが、三者が他ならぬ主人公自身だという解釈は有力な別解釈の一つである。ただ、この解釈に立ったとしても、主人公が自分の真の苦しみを語っていないことには変わりはない。むしろ、自分の苦痛を他者的な像に担わせる事態は、より他者性を強調したものであると評価できる。彼女はほかならぬ自分のものである苦しみをも自分のものとして語ることもできず、彼女自身の苦しみと心中するのである。
(注5)自殺の対人関係理論を考案したJoinerによる研究が代表的(Joiner, T. E. (2005). Why People Die By Suicide. Cambridge, MA: Harvard University Press)。


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