失明得暗──新たな「ユニバーサル」論の構築に向けて ②──広瀬浩二郎
「濃厚に触れ合うことによって人間は文化を作り、歴史を歩んできた」と語る広瀬浩二郎さんは、全盲の文化人類学者。国立民族学博物館准教授で「誰もが楽しめる博物館」の実践的研究にも取り組んでいらっしゃいます。
2021年秋に国立民族学博物館で開催された「ユニバーサル・ミュージアム──さわる!“触”の大博覧会」を成功に導いた広瀬さん。
「誰もが楽しめる」とはどういうこと? わたしたちがこれからの本づくりをする上でもヒントが満載の「新たな『ユニバーサル』論」を広瀬さんに書いていただきました。
全3回連載の第1回では、13歳で失明し、盲学校で点字に触れる中で考えてきたことを書いていただきました。第2回の今回は、「ゴールではない」と思い知らされた大学進学、そして研究者として進むべき「未知の道」の模索について綴ります。(第1回記事は→こちら、第3回記事は→こちらからお読みください)
■点字受験で大学へ
1987年、僕は点字受験を経て大学に進学する。当時、僕は国際障害者年のスローガン「完全参加と平等」にあこがれていた。点訳された参考書・問題集で受験勉強をし、健常者と同じ試験を受けて大学に合格する。これこそが、盲学校を卒業した僕にとって「完全参加と平等」の達成だった。大学受験を登山に例えるなら、健常者は視覚を使って頂上をめざす。一方、視覚障害者は触覚と聴覚を駆使して山登りに挑む。方法が違うだけで、ゴールは同じである。「自分は健常者のように何だってできる」。そんな高揚感とともに、僕のキャンパスライフが始まった。
自分は健常者と同じだという意識なのに、周囲の健常者は全盲の僕のことを同じとは見てくれない。障害者に対する世間の無理解、過大評価と過小評価の連続に、僕は少なからぬ苛立ちを覚えた。少数派である障害者は、まず「○○ができる」という具体例を健常者に示していかなければ、共感を得ることができない。大学進学はゴールではなく、「完全参加と平等」の出発点であることを僕は思い知らされた。
視覚障害者の近代史は、自立と社会参加の歩みであると総括できる。たくさんの先人たちが努力を重ね、障害者にも「できる」ことの幅を広げていく。健常者中心の社会の中で、障害者たちは己の居場所を探り当てるために、必死に頑張った。いや、頑張らざるを得なかったという方が正確だろうか。自立と社会参加の促進が目標とされる中で、当事者コミュニティにあっても、失明は克服すべき苦難と位置付けられるようになった。いつの間にか、失明と表裏一体だった得暗の価値は顧みられなくなってしまったのである。
僕自身も健常者とのつきあいが日常化し、得暗の大切さを想起する機会が減っていった。大学生の僕は相変わらず点字での読書を日々楽しんでいたが、点字では物理的に「できない」ことに突きあたるのもこのころである(1980年代には国家公務員の採用試験でも、まだ点字受験が認められていなかった)。
やがて、僕はパソコンを使って、視覚文字を読み書きできる技術の習熟に力を入れるようになる。僕は、点字の便利さと不便さを知る最後の世代、パソコンの威力に驚愕した最初の世代といえるのかもしれない。
■「触角」を伸ばして「未知なる道」を歩む
そんな僕が再び得暗の意義を自覚するのは、日本史の専門課程への進学後である。研究を通じて、琵琶法師・瞽女(ごぜ)・イタコなど、盲目の宗教・芸能者の活動に興味を持った。日本史の研究では、古文書の解読が必須とされる。点字使用の僕には、古文書を自力で読み解くことができない。どんなに努力しても「できない」ことがあるという厳然たる事実に直面し、僕の「完全参加と平等」幻想はもろくも崩れた。
では、過去の盲人たちは「できない」こととどのように向き合っていたのだろうか。僕は自らの「生き方=行き方」の方向を定めるという切実な動機を持って、盲人史の沃野に足を踏み入れることになった。
前近代の日本社会では、琵琶法師が多種多様な口承文芸(語り物)の創造者として活躍した。『平家物語』は、音と声で伝承された盲人芸能の代表作といえる。瞽女は盲目の女性旅芸人である。彼女たちも瞽女唄を各地に伝えた。イタコ(盲巫女)の生業は、死者の霊(目に見えない世界)との交信である。シャーマンであるイタコは、民衆のさまざまなニーズに対応するカウンセラーとしても村落共同体を支えた。
前近代の盲人たちは、文字(視覚)を使わない領域で個性を発揮していた。近代化とは、視覚を使わない彼らの活躍の場が狭められ、視覚を使えない障害者として差別される歴史ということができる。目の前の古文書が読めない現実に、悩み苦しんでいた僕は、琵琶法師や瞽女との出会いをきっかけとして、古文書を読まない研究方法を模索することとなった。
もう一つ、僕が前近代の盲人史を通して学んだのは、旅の意味である。中世の琵琶法師は、全国の寺社を頻繁に訪ねていた。瞽女は1年に300日以上、旅に出ていたという記録がある。先述したように、視覚障害者にとって歩くことは多くの困難を伴う。公共交通機関が発達し、誘導用・警告用の点字ブロックが整備された今日でも、視覚障害者の単独歩行は危険と隣り合わせである。実際、座頭(盲人)が崖道などで転落・死亡したという伝説が各地に残っている。なぜ琵琶法師や瞽女は、点字ブロック・音声信号機がない「未知なる道」を歩いていたのだろうか。
視覚障害者が歩く際、全身の感覚(センサー)を総動員する。僕はこれを「探索型の歩行」と称している。いうまでもなく、探索にあたっては触覚(杖)と聴覚(耳)が重要な役割を果たすわけだが、それだけではない。足裏で地面の微妙な変化を察知し、顔の皮膚で風の流れや太陽の位置を推し測る。人・物のにおいによって、目に見えない気配を体感することもできる。
第六感を含め、人間が持つ身体感覚の総称として、僕は「触角」という語を用いている。視覚障害者の単独歩行は、全身の毛穴から触角が伸びるイメージに近い。自分が歩く道の安全を視覚的に確認することはできないが、触角で得た情報を統合し、一歩ずつ「未知」の探索を続ける。「未知=道」を切り開く歩き方は、視覚障害者の「生き方=行き方」にもつながっているのではなかろうか。
視覚障害者が使う白杖は、触角のシンボルである。白杖は手の代わりとなって、さまざまな触覚情報を届けてくれる。また、白杖は音の響きや振動などで「未知=道」の様子を伝えるセンサーでもある。一般に、人間(二本足)は動物(四本足)から進化したといわれる。たしかに、手を自由に使えるようになったことで、人間が新しい文化を生み育てたのは間違いない。だが、四本足から二本足になったことで、人間が失ってしまった感覚(動物的な勘)も多い。幸か不幸か、白杖を使用する視覚障害者は、三本足で歩いているともいえる。二本足から三本足への移行は、進化でも退化でもない。人間(二本足)と動物(四本足)は地続きの存在であり、その間を往還するのが失明得暗者、すなわち視覚障害者だということができる。
琵琶法師や瞽女は、自身の触角を鍛えるために歩いていた。触角は、彼ら独自の芸能を発展させるために不可欠な武器だった。『平家物語』や瞽女唄は、単に福祉的な文脈で支持されてきたわけではない。盲人たちが各地を歩き、触角でとらえた森羅万象の気配が、音と声による語りに集約された。それゆえ、『平家物語』や瞽女唄は、目が見える者には創造できない優れた芸能として評価されたのである。歩くことは語ること、唄うこと、さらには生きることに直結していたといえるだろう。
■目の見えない者は、
目に見えない物を知っている
1990年代、僕は九州や東北地方に残る盲人芸能のフィールドワークを通じて、前近代の琵琶法師や瞽女たちが、失明によって「できない」ことではなく、得暗によって「できる」ことで勝負していた歴史を知った。研究者としての道を模索する僕の関心は、「健常者と同じことができる」から「健常者と違うことができる」へ移っていく。
結局、僕は琵琶法師や瞽女の芸能そのものを継承することはできなかったが、同じ目の見えない者として、歩く大切さは肝に銘じているつもりである。「目の見えない者は、目に見えない物を知っている」。そう信じて、これからも未知なる道の探索歩行を続けていきたい。
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広瀬さんの連載は広瀬さんの連載は全3回です。①はこちら、③はこちらからお読みいただけます。
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*広瀬浩二郎さんの本
*「さわって学ぼう 点字の本」全3巻(ポプラ社)