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黒田清輝

黒田記念館

所在地:東京都台東区上野公園12-53
竣工:昭和3年(1928)
指定:2002年2月14日 登録有形文化財(建造物)
訪問日:2024年2月17日

鉄筋コンクリート造、2階建て、地下もあります。
2階中央にイオニア式列柱が6本。
設計者は東京美術学校(現東京藝術大学)教授岡田信一郎氏です。

イオニア式って?
古代ギリシャの建築様式で、柱頭部がうずまきになっているそうです。

出典: wikipedia
1.エンタブラチュア、2.コラム、3.コーニス、4.フリーズ、5.アーキトレーブ、6.柱頭、7.柱身、8.礎盤、9.ステュロバテス、10.基壇


室内は撮影禁止です。
階段・入口・廊下は撮影可。

日本近代洋画の父ともいわれる黒田清輝は、大正13年(1924)に没する際、遺産の一部を美術の奨励事業に役立てるよう遺言しました。これをうけて昭和3年(1928)に竣工したのが黒田記念館です。

黒田記念館公式webページ

亡くなってなお、日本美術界に貢献しようとしたんですね。


階段の手すりはアール・ヌーヴォー風の鋳物。
これ? アール・ヌーヴォーなんだ、もっとクルクルうねっているのがアール・ヌーヴォーだと思っていました。
これは幾何学模様のように見えます。

筆者撮影


展示作品は、私の知らない絵ばかりでした、面目ない。
黒田清輝には詳しくなく、教科書に出てくる絵くらいしか知りません。あるいは記念切手になったものとか。

付け焼き刃で、これから勉強します。

浅学の私のnoteはほとんどが学習ノートです。
それはちがう、ということがありましたら、教えて下さい。


黒田清輝

よく見る写真。
画家というよりも◯◯爵みたいな貫禄。
と思ったら、実際「子爵」だったそうです。

出典:独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所

生い立ち

慶応2年(1866)、鹿児島県島津藩士の家に生まれます。
明治藩閥政治の下、強運を掴んで生まれたと言っていいでしょう。
鳥羽・伏見の戦いで武功をあげた伯父の、養子になったのは6歳のとき。
経済的に恵まれた幼年期を過ごし、というか、7000坪の邸宅の池や滝で遊んだというから、典型的なお坊ちゃん育ち。
庭に滝ですって?

養父に、法律家になるように言われてフランス語を学び、のちは政府高官になる折り紙つきで、18歳でフランスに留学しますが、彼の地で、画家になることを決意しちゃうのです。

画家・山本芳翠、画家・藤雅三、画商・林忠正らから、画家になることを勧められ、もともと絵が好きで、教養として狩野派などの絵を習ったことがあったため、まんざらでもなかったよう。
「日本の美術は西洋の美術より劣っているから、君がなんとかしてくれよ、君は法律家になるよりも、画家になったほうが日本のためだよ」
と勧められたことが、養父への手紙に書いてあります。

そして早速、ラファエル・コランに弟子入りします。
ラファエル・コラン?
今はあまり知名度が高くありませんが、当時は画壇の中央にあり、何人もの日本人画家が師事しています。

画家たちが集まる田舎のコロニー「グレー・シュル・ロワン」に起居して、農家の娘、Maria Billault(マリヤビヨー)と知り合い、黒田清輝は画才を花開かせます。
村にふりそぞぐ光を活かし、彼女をモデルに何枚を絵を描きましたが、そのうちの『読書』は、サロンで入選を果たし(日本人としては3人目)、パリ画壇にデビューしました。

マリヤビヨーは、肩幅が広く、体格がいいですね、黒田清輝よりも背が高かったことが手紙に書かれています。
のちに結婚した照子夫人も、鼻の高い西洋風な顔立ちです。
黒田清輝の好きなタイプなのでしょうか。

文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/565159

青空文庫に黒田清輝の『女の顔ー私の好きな』という掌篇があります。
「ひと口に言ふと、うすぼんやりした顔が好きです」
「スラツとした姿の美しい女がいい」
「いったいに東京の女は顎が短くていけない」
だそうです。


帰国

明治26年(1893)、9年間の留学を切り上げ、27歳で帰国するとすぐ京都へ旅行し、『舞妓』を描きました。
久しぶりに見る日本の女性の美しさに、感動したそうです。
背景を流れているのは鴨川です。

文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/199380

水面の描き方など、印象派を学んだ影響が見て取れます。
着物や髪の毛の描き方は、当時ヨーロッパで流行していたジャポニズムを逆輸入したように見えます。
上村松園、伊東深水などの日本画の美人図と比べると、日本画のほうがずっといいなあと思ってしまうのは、私の好みの問題でしょうか。


湖畔
箱根の芦ノ湖の湖を背景に、涼んでいる女性は照子夫人です。
背景は水彩画に近く、コテコテの油絵からの方向転換を感じさせます。

文化遺産オンライン
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/16904


黒田清輝は、日本にそれまでなかった外光表現をもたらしました。
浮世絵にしろ大和絵にしろ、影がないということは光が描かれていなかったのですね。

明治29年(1896)に、美術団体白馬会を結成し(1911年解散)、藤島武二青木繁ら異才を輩出しました。

また東京美術学校(東京藝術大学美術部の前身)に創設された西洋画科の初代教授となり、藤島武二、和田英作らと共に、日本における西洋画のアカデミズムを築き上げるのです。


しかしその道は平坦ではありませんでした。
腰巻き事件」をはじめ、黒田清輝は何度もバッシングを受けました。

出典:wikiwand
https://www.wikiwand.com/ja/%E9%BB%92%E7%94%B0%E6%B8%85%E8%BC%9D

明治34年(1901)年、第6回白馬会展に『裸体婦人像』を出品。
黒田清輝にとっては自慢の力作でしたが、警察から待ったがかかります。
これは春画だ、けしからん、というわけです。
ちがいます、芸術です!
このやりとりは、今もありますね。
結局、腰から下に布を巻く、ということで一件落着しました。


黒田清輝の代表作『読書』『舞妓』『智・感・情」』『湖畔』は、黒田記念館特別室に掛けられてあり、年3回だけ公開しています。
調べてみたら、訪問した翌日がその公開日でした、残念(T_T)


<参考資料>

山崎正和著「夢を見ない人」ー黒田清輝日記から
収録『日本の名画5 黒田清輝』中央公論社  1975年

三重県立美術館編『生誕120年記念黒田清輝展図録』読売新聞社 美術館連絡協議会 1986年。

文化財オンライン「東京文化財研究所黒田記念館本館」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/115697

独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所webサイト
https://www.tobunken.go.jp/kuroda/gallery/japanese/life_j.html

e国宝「舞妓」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100326&content_part_id=000&content_pict_id=0


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