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涯への散歩

 月を見すぎたら、目が馬鹿になった。視界にずっと月の残像がゆらめいてる。世間がスーパームーンなんて騒ぐから、ちょっと見てみようってんで外に出て月ガン見してたらこれだよ。月の光はマジでヤバい。ずうっと見てたら目の奥がこうじんじんしてくる。普段感じない光を浴びて神経が驚いているんだろう。ああなんかヤバいな。ヤバいと言えば、俺の生活状況。これがまた絶望的にヤバい。大学を卒業してから定職に就かず、アルバイトをやったり辞めたりを繰り返してきた。今はなにもしてない。故に金なし。家賃も3ヶ月滞納してる。そろそろ大家の態度もヤバくなってきた。日々が退屈すぎて、死のうかななんてふと思ってみたり。どうしたもんかな。だからこうして深夜に外へ出ては、あてもなくふらついて疲れたりする。今日は月が綺麗だから、なんてそんなことはどうでもいい。こんな毎日だから感動もない。
 俺は座っていたベンチから重い腰をあげると、再び歩き始めた。夜の隅田川はどこか不気味だ。闇に揺らめく水は全てを呑み込んでしまいそうだ。この川で何人の人々が死んでいったのだろうか。この川は遊女の涙だ。男に裏切られた女が最後に流した涙なのだ。白鬚橋を渡り、明治通りを西に進む。
 ここで人生なんて振り返ってしまったら、それこそ終わりだ。俺の生活は終わってるけど、俺の人生はまだ終わってないと信じていたい。ヒップホップを聴きながら深夜の道をふらふらと。なんだかいい感じだ。このまま西へ進むと南千住へ着く。気分じゃないから南へと山谷を目指す。誰もいない商店街を歩く。ゴミの山かと思ったら人だった。日雇い労働者だろうか。俺は少しげんなりして煙草に火をつけた。夢うつつな心地をあそばせ、俺はただふらつく。珈琲を買おう。語りたいことなんて無くなった。俺はただ魂のように揺らめくのを望む。そんな風にぼんやりとしていたら後方から声がした。
 「おめえさん、道化師を見たことがあるか」
 声のした方を振り向くが、誰もいない。幻聴か。俺もそろそろキテるなって、再びふらつこうと前を見ると一人の老人が俺の行く手をふさいでいた。
 「道化師だよ。道化師を見たことあるかってんだ」
 老人は凄い悪臭を放ち、俺の目をじっと見つめていた。
 「ないですけど」
 俺が動揺しているのを見てとると、老人は満足そうににやつく。どうでもいいけど、すげえダサいセーター着てんな。どこで拾ったんだよそれ。
 「俺が道化師だよ」「はい?」「この俺が道化師なんだよ」
 月の光を見すぎておかしくなったんかな。老人は続ける。
 「道化師っていうとわからねえかな。案内人っていった方がいいかもしんねえな」
 「案内人ってなんすか?」
 「おめえさん、魂って信じるか?」
 「ええ、まあ」
 「じゃあ、話が早えや」
 老人は口をモゴモゴして痰を吐きだした。老人が吐いた痰は地面に落ちることなく、宙にとどまった。突然のことに頭の処理が追い付かない俺に老人は言う。
 「これは俺の魂箱だ。痰じゃねえよ。言ってしまえば魂の入れ物だな。おめえさんにもあるんだよ」
 「魂を吐き出してどうするんだ?」
 「まあ、まてや。まだ魂は吐き出しちゃあいねえよ」
 老人は何やら気合いを入れて、奇声を発した。すると宙に浮いていた痰がボコボコと沸騰したように動き始めた。どうやら肥大しはじめているようだ。
 「今、魂のガワに俺の霊魂が入った」
 「えっ」
 俺はとうとうキチガイになってしまったのだろうか。先程まで話していた老人は消え、ボコボコと沸騰する痰が俺に話しかけているのだ。 
 「おめえさん、世界を浮遊して見てみたいって思わないかい?」
 痰はボコボコと俺に問いかける。俺は何も言えなかった。
 「おめえさんの魂の叫びが俺を呼び出したんだ。勘弁してくれよな。せっかくの休みだったんだ」「やってみるか?」
 痰は相変わらずボコボコしている。
 「あの、ずっとそんな風にボコボコするんすか?」
 「これは一時的なものだ。十五分もすればおさまる。それまではちょっとだけ気分が良くないけどな」
 「俺の魂の叫びがあんたを呼び出したってどういうこと?」
 そう聞くと、痰は咳払いをした。
 「そうじゃな、おめえさん退屈しておるだろ?人生に。退屈さにも度合いがあってな、限度まで退屈になると防衛本能というか、そういったもので魂が助けを求めはじめるんだ」
 「俺の魂が助けを求めた?」
 「うむ。魂というものは脳とは別の組織体だから理解できなくても当然だ」
 「じゃあ、最初に言ってた道化師ってなんすか?」
 「案内人だよ。おめえさんの魂は肉体におさまることを拒否しておる。だから魂を解放してやるんだ。その役目を担っているのが、俺みたいな道化師ってわけだ」
 魂?痰が魂などという言葉を発するなど夢にも思わなかった。だが、目の前で繰り広げられている一連の出来事は現実なのだ。たとえ夢うつつな気分になっていたとしても、そのくらいの判断はつく。魂の解放。そのようなワードは聞いたことがあったが、まさか本当に存在するとは。そこまでは理解できるような気がするが、問題はそこから先だ。俺の魂は解放されたがっている?じゃあ、魂を解放したらどうなるんだ?あの世に行くってことか?それとも霊魂となって現世をさまよってしまうのか。
 「後者じゃな」
 痰は俺の思考を読みといたのか、すぐさまそう言った。
 「じゃあ、俺のこれからの人生どうなっちまうんだ?俺の意思では止められないんだろ?魂が出たいって言ってんだろ?めちゃくちゃじゃないっすか」
 「仕方ない。おめえさんの身から出た錆だ」
 うわあ。マジかよ。最悪だな。散歩なんてしなきゃよかった。なんでこんなことになるんだよ。もっと真面目に生きてればよかったんかな。マジで。はあ。
 「魂を解放するのもけっこう良いもんだぞ」「生きてるとか死んでるとかそんなもの関係なくなる」「生と死を越えた、新しいステージに立てるんだぞ」
 「生きてるか死んでるか分からないとか、悲劇じゃないですか。そんな曖昧な状況、きっと耐えられないですよ」
 「初めは怖いわな」「肉体を越えた存在だから慣れてきたらすっげえいいぞ。全てが思うままになるんだ」
 俺はワケが分からなかった。ほんとに。ただ夜道を散歩していただけなのに、なんでこうなってしまったのか。俺は、人生を振り返ろうとして止めた。しかし、振り返らざるを得ない状況に陥ってしまったのだ。老人は身から出た錆だと言った。なるほど。そうに違いない。俺は人生をテキトーに生きてきたのだ。テキトーに生きてきたツケなのだ。不思議がる必要なんてない。これが自然の摂理だと受け入れれば済む話なのだ。もう抗うには遅すぎる。考え方を変えないとな。月だってスーパームーンになるんだ。俺だってヘンテコな存在になったって良いじゃないか。ってことで俺は全てを受け入れる覚悟を据えた。
 「覚悟できたんだな」
 「はい」
 「もう、普通の人間には戻れないぞ」「といってもおめえさんには選択肢はないがね」
 「わかってますよ。はやくやっちゃってください」
 「ずいぶん物分かりがいいんだな」
 「もう諦めてますから」
 「わかった。じゃあ行くぞ。痛いぞ」
 「えっ、痛い?」
 目映い光とともに全身に猛烈な痛みが走った。細胞ひとつひとつが焼けていくような凄まじい痛み。細胞が剥がれてゆく。俺は痛みに悶えた。しかし、声はでない。次第に感覚というものがなくなっていく。落ち着いた頃には俺はもう霊魂になってしまっていた。
 そこは、現世とはかけ離れたところだった。まるでドーム型のプロジェクターのようなものが張られ、そこに様々なイメージが写しだされていた。そのイメージがなんなのかは俺には分からなかった。なんか、ヤバそうな、見てはいけないようなイメージってことしか俺には分からない。ひとつだけ見覚えのあるイメージがあった。バブリシャスのコマーシャル映像だ。巨大な象が木々をなぎ倒して迫ってくる。なるほど、これは俺が幼い頃に恐れたトラウマコマーシャルだ。今みても別に恐くはないが、いい心地はしなかった。
 ・・・おーい!
 ・・・誰か!いないのか?
 試しに、この状況で正解と思われる言葉を発声してみた。しかし、それは発声というよりテレパシーのような思念体となって周囲に響き渡った。もう、言霊というものはなくなってしまったのだ。
 ・・・じいさん!じいさんどこ?
 ・・・おめえさん、意外に慣れるの早いな。
 ・・・じいさん!
 俺は老人に愛着というものを覚え始めていた。それに、なんかふわふわしたような包容的な感情が内から芽生えてくるのを感じた。
 ・・・じいさん!俺どうなったんだ?
 ・・・おめえさんはいま、霊魂の赤ちゃんだ。これから人間の子どものように成長して、完全な霊魂となるのだ。身体をみてみなさい。
 ・・・は?
 俺は目を疑った。そこには俺の身体はなかった。痰のような物体があるだけだ。
 ・・・これ、痰?
 ・・・痰ではない。魂箱だ。おめえさんは初めてだから俺が入れといてやったんだ。普通はここまでしないぞ。
 ・・・ここは、どこなんすか?上に写し出されてるイメージはなんすか?
 ・・・ここは魂界だ。あのイメージは特に意味はない。現世でいう空のようなものだ。おめえさん、ひとつ言っておくがな、ここでは意味を求めたらだめだぞ。意味というものは現世でしか役に立たない。人間が作り出したまやかしなんだ。
 ・・・まやかし?
 なるほど、老人の言うことにも一理ある。意味なんてものは人間が後々つけた理屈でしかないんだ。人間が勝手に事物を理解しようと、エゴイスティックに産み出した概念でしかないのだ。
 ・・・なんか、俺ここに馴染めそうっす!
 俺は溌剌とした気分になったが、老人からの返答はなかった。
 それから、いくら話しかけても老人はなにも言ってはこなかった。もういなくなったのだ。これからは自分でなんとかしろということなのか。なんとかしろって言ったって、どうすれば?そうだ意味を求めてはいけない。もう全てを自然に任せようと誓ったばかりではないか。何が起きても動揺しないぞ。俺は強いんだ。スーパームーンのように輝かしいんだ。全てを超越した存在だ。現世がなんだ。俺は無敵だぞ。
 意気揚々とアッパーな気分になった俺の前に現れた"それ"に俺は愕然とした。"それ"はもう悲劇的であった。俺は"それ"を見た。"それ"は俺を見ていた。そして"それ"は俺を取り込んだ。
 俺は"それ"になった。
 そして、"それ"は"それ"となった。

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