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眩暈

 いつしか日も長くなり伸びた陰から微かなゆらめきを感じ取った。幻のように思えたそれは次第に現実味を帯びて私の躰を刺激した。かなしみにも似た曖昧な気持ちを抱きながら私はゆれるのだった。それが地震だとわかったのは荒れ狂う電線の束を見たあとのことだ。大地は軋み。木々はしなる。夕暮れ時に帰ってゆく鳥たちは消え奇妙な静けさだけがうねるように存在していた。

 地震はすぐにおさまった。私の躰だけがいつまでもゆれているようで僅かな嘔吐感を覚えた。こういうとき健司さんでも居てくれたらと私は彼の忙しさを恨んだ。支えるものが欲しい。なんでもいいからずっしりと地面に生えた肉体に抱きしめられていたかった。健司さんは三日ほど前から大阪へ仕事で出かけていた。彼が向こうへ行ってから一日目の夜。孤独に耐えかねた私は彼に手紙を書いた。とても短い手紙だった。さびしさを文章に塗りたくり切手にかなしみを染み込ませた。君の文章は聡明でいて同時に幼児性を秘めている。かつて彼は言った。私はどういうこと?とは聞かなかった。質問することは彼を苦しめてしまうから。ふらつきながら私は歩く。私のゆれはまだおさまっていなかった。視線を杖のように地面に突き刺し躰ぜんたいを支える。頬を垂れる汗が鼻をつたいポトリと落ちた。ぐらぐらになる頭を持ち上げて景色を捉えたときだった。けたたましいブレーキ音が悲鳴のような発声を伴い私の鼓膜を震わせた。鈍い音が静けさの中に鳴る。音のしたほうを見ると子供がまるで物体のように転がっていた。二度と動かないように思えた。周囲はにわかに騒がしくなり人々が子供を取り囲むように集まった。誰も子供に手を触れようとはしなかった。私は思わず嘔吐し逃げるようにその場を去った。首筋がつんと冷たくなり世界がまるで私と関係なくなってしまうような感覚に陥った。健司さん。私は声に出して言った。私は明らかに彼の肉体を欲していた。

 あの出来事があってから私の中で健司さんの不在がある種の現実性を持って憂鬱の根をはった。彼が大阪へ行ってからすでに一週間が経過していた。手紙の返事はまだ来なかった。私は棄てられたのかしらと畳に寝転がり鬱を数えた。あきさん。あきさん。母が私を呼ぶ。あきさん。いつまでそんなにだらだらしてらっしゃるの。映画でも観たらどう。丁度チケットがあるの。母は猫を愛玩するような声で言う。ごめんなさい。気分じゃないの。お母さまだけでいってらして。私は母に背を向けたまま言った。母はそれ以上なにも言わなかった。毎日のようにポストと畳の往復だけで一日を過ごしている私を母は心配しているようだった。いっそのこと見合いの話でもこないかしら。見ず知らずの男と結婚して健司さんに復讐してやりたいという安易な考えが過った。
 襖の向こうから水の音が聞こえる。どうやら外は雨だった。私は相変わらず畳の目を爪で引っ掻きながら健司さんのことを考えていた。健司さん。健司さん。どうしてあんな男に拘るのか私にもわからなかった。ごろりと寝返りをうって乱雑に重ねられた本の山から一冊手にとった。ヘンリー・ミラーの『南回帰線』だった。まだ読んだことはなかったけれど今の気分にぴったりだわとなんとなく笑ってみた。
 一週間と少しの日が過ぎた。いまだに健司さんからの便りはなかった。雨はあがり茹だるような暑さが私の躰を蝕んだ。あのトラックに轢かれた子供は助かったのかしら。罪にもにた心のざわめきが脇のあたりのしこりとなってびんびん痛んだ。私は逃げたんだわ。あの状況から。でも逃げるしかなかった。ひとりでは健司さんがいなければ私はただの女ですもの。あっと目が冴えたかと思うと途端に眩暈が襲う。目が。回る。女ひとりの肉体では立つことすらままならない。このまま私は回りつづけながらあの人の手紙をまつのだろう。ささくれた畳の目に熱っぽい吐息を吹きかけながら私はゆれつづけた。

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