深淵の空

スマホが鳴り、私は指定された場所に向かう。
「こっち」
彼が私を呼び止める。
彼が飲む同じお酒を注文して、軽く飲むと合図のように店を出る。
私は彼の少し後ろを歩く。
スーツを着た彼の背中は男性にしては線が細く、華奢だった。
この背中を眺めるのが好きだった。
彼が決して見ることがない自分の後ろ姿を、私はいつも目に焼き付ける。
スーツを脱ぎ捨てて行く時のワイシャツから少しだけ見える肩甲骨のライン、裸になった時に現れる背骨にあるホクロ。
私しか見ていないそのホクロが、私はとてつもなく好きだった。
それを見ている時だけは彼を独占していると思えたから。
私は彼の背中のホクロに口づけをする。
「いつもそこにキスするけど、なにかあるの?」
彼は自分の背骨にホクロがある事を知らないのだ。
私しか知らないのだ。

私だけの秘密。夜しか会わない、私だけが知ってる秘密。
秘密は嬉しい。楽しい。
でも、寂しい。
私は彼の、夜の背中のホクロしか知らない。

他を知ろうとすることが怖い。
夜のホクロしか愛したくないのに、近づけば昼間のホクロを知りたくなる。

夜は視覚も感覚も鈍る。
だから、夜が好きなのに。
夜のホクロを愛するだけで良いのに。
彼に焦がれているだけで良いのに。
私は夜の彼しか会えないのだから。

私は1人真夜中の深淵の空を眺める。
深い夜は、そこに私だけしかいない錯覚を起こした。
私は彼に焦がれている。
だけど、焦がれれば焦がれるだけ、夜のホクロを愛せば愛した分だけ深淵の孤独に飲み込まれるようだった。

怖い。

初めて夜が怖いと思った。
孤独を認識してしまった自分が怖いと思った。

その時、深い夜の端っこから、灰色の空が浮かんできた。
すると周りの景色がうっすらと見え始める。
次第に自分の身体もくっきりと見え始めた。
太陽が、景色の端っこから顔を出して、私の身体を照らしていた。

「綺麗だな。」

そう呟き、大きく息を吸った。
匂いを嗅ぎ、風の音を聞き、夜の終わりを感じ取った。
「さて、帰ろ。」
私は朝日に包まれて夜を後にした。


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