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トラウマは存在しない?

「アドラーは”トラウマは存在しない”っていってたんでしょ?」
と聞かれることがある。

残念ながら私には、死者と交信できるような特殊能力は持ち合わせていないので、80年以上前に亡くなっているアドラーが、トラウマについて実際のところどう考えてどのように言っていたのか、正確なところはわからない。

なのでこの記事は、アドラー本人が書いた本や講義やカウンセリングの記録など、わずかながらの情報から私が勝手に憶測した想像に過ぎないことを予め断っておきます。


結論からいうと、

アドラーは「トラウマ」の存在は否定していなかったと思う。

アドラーがトラウマについて言及しているといわれる原文は、こちら↓

いかなる経験もそれ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。
われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す。
自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである。
※アルフレッド・アドラー「人生の意味の心理学」

これは、経験による衝撃(ショック)は
いかにその出来事が悲惨なものだったか、
日常からかけ離れたものだったか、
という「事の大きさ」に人は苦しむのではなく、

その出来事が本人にとってどれだけ意味あることだったか、
そこにどんな意味をもたらしたのか、
という「心理的な大きさ」に苦しむ、
といっているのだと思う。

受験に失敗した、という事実にではなく
”次もまた失敗するかもしれない”、
”受験に失敗するような自分はダメだ”
と思うことに、

恋人にフラれた、という事実にではなく
”あの人以上に愛せる人はもういないかもしれない”、
”フラれるような自分は価値がない”
と思うことに、

その出来事に自分がどんな「意味」をつけたのかによって、人は苦しむのだと。


「大切な人を失うこと」を想像してみると
「経験が自分に与える意味」とはなにか、わかるような気がする。

失った人数の多さとか、血縁の深さとか、人間なのか動物なのかとか
そういう客観的な「事実」から心の傷を測れるものではない。

自分にとっていかに大切でかけがえのない存在だったか、
その人を失ったことが自分にとってどんな意味をもたらすのか。

もう二度とあの姿を見ることはできない、
一緒に過ごす時間も、大切だった温もりも、
この先ずっと続くと信じていた存在を失ったことが
自分にとってどんな意味をもつのか、
どのように捉えたのかということが、人を苦しくさせるのではないか。

そこに、
「もう会えなくなるなら、もっと優しくしておけばよかった」とか
「自分があの時何かしていたら、あんなことにはならなかったかもしれない」とか
更に付け加える「意味」があれば尚のこと、
それが余計にその人を苦しくさせるのだと思う

震災や虐待など、体験したことのない私には慮ることすら憚られるが、
その経験からその人がどんな風に自分を意味づけ世界を捉えるようになったか、想像するだけで胸がぎゅっとなる。


戦争中に軍医の経験もあるアドラーが、戦地に向かって心身共に傷ついてきた兵士たちを何人も診てきて、人間に「トラウマ」がないと思ったとは、
思い難い

おそらく、その目で見ていたはずだ。
アドラー本人が悪夢にうなされるほどの、トラウマの症状に苦しむ人の姿を、数え切れないほどに。

それでも尚アドラーが信じたのは、
「トラウマを抱えた人はこの先もずっと苦しみ続ける」という、
心の傷からは逃れられない悲しい運命の方ではなく、
人間の可能性がもたらす希望の方
だったのだと思う。

アドラーはトラウマがもたらす「症状」があることは認めていたし、
トラウマを抱える人々を否定していたわけでもない。
ただ、過去の事実は変えられなくても、その事実をどう捉えるか、今の自分がどう向き合っていくかで、トラウマという実体のないものは変えられる、とは考えていた。

それはアドラーが、人間を動かす力は「目標を追求する力」だと考えていたからだ。
誰もが、自分の弱さや足らないことを自覚していて、だからこそ今よりもっと良くなりたいと望み、それが人間を突き動かす原動力になっているのだとアドラーは考えていた。

どの心のうちにも現在の状態を超えていき、将来に対する具体的な夢を仮定することで、現在の欠陥と困難を克服しようとする目標、あるいは理想という概念がある。この具体的な目的、あるいは、目標によって、人は自分が現在の困難に打ち勝っていると考えたり感じることができる。(中略)この目標という概念がなければ、個人の活動はどんな意味も持たなくなるであろう。
※アルフレッド・アドラー「個人心理学講義」

だからアドラーがいった
「トラウマに苦しむのではなく、経験の中から目的に適うものを見つけ出す」というときの「目的」は、
たとえば外に出られない人の目的は「外に出ないこと」だというような近い目的だけをいうのではなく、その近い目的をも含むもっと大きな目的、
”外へ出ないことでその人は何を得ようとしているのか”、というもっと広い視点、
「その人の生き方」とか「その人が目指している人生の方向性」のような意味だと思う。


だからといって、人間にとっては目的がすべてだから、過去や環境は関係ない、と「原因」をないがしろにしていたわけではない。


健康なものであれ病的なものであれ、人間の精神生活を研究する上で
最も重要な問いは、「どこから?」ではなく「どこへ?」である。
この「どこへ?」の答えの中に、原因は含まれている。
Lebenslüge und Verantwortlichkeit in der Neurose und Psychose

過去や環境の要因だけで
「過去がこうだから、その人は今こうなっている」
とは一概にはいえない、と運命論を蹴り上げた。

なぜなら、心の傷が何で起こったのかということとは別に、
「その人が何を求めてどこへ向かおうとしているのか」
は人それぞれで、それを知ることこそがその人を理解する鍵になる

と考えていたから。

これは同時に、アドラーがトラウマや神経症などの「症状」から
人を分類し判断しようとしたのではなく、
症状を抱えたその「人」そのものを理解しようとしていた、
ことを表していると思う。

われわれは、人が世界と自分自身に与える意味、目標、追求努力の方向、人生の課題に直面する方法を調べるのである。
※アルフレッド・アドラー「人生の意味の心理学」

家から出ようとすると怖くて手の震えが止まらなくなるんだね、
じゃああなたの症状は対人恐怖症だ、
対人恐怖症の人はまずはこんなことをしてみなさい・・というように、
病気の「症状」の方に人を当てはめて、人間を理解するような見方はしなかった。

人は1人1人違うから。

人を「分類」してその症状に適した治療を行おうとするのではなく、症状を含めた「目の前の人」を理解しアプローチすることを治療とした。

われわれは、他の人の眼で見て、他の人の耳で聞くことができなければならない。
たとえ、患者を理解したと感じても、患者自身が理解するのでなければ、われわれが正しいという証拠を持つことはないだろう。機転の利かない心理は、決して全体の真理にはなりえない。

こんな風に、患者と向き合い理解しようとした人が、
仮に「トラウマは存在しない」と考えていたとしても
患者本人に
「それはトラウマではないんですよ」
なんてことを患者本人に言っていたとは到底思えない。

というより、アドラー自身も言っている。

私はいつもそうしなければならないように、患者の態度には正当化があることを認めることから始める。
※アルフレッド・アドラー「人生の意味の心理学」

この表現の仕方にはなんだか温かみは感じられないが、
これは要するにアドラーが患者さんに対し、たとえ患者が一般的には理解しがたいような、論理破綻しているようなことを言っていたとしても、
相手の「言わんとしていることを理解し、受け入れていた」ことを示している。

正直言って、アドラー自身が執筆した本を読むと
人間ってそんなにずるくて弱いものなのかな、と思うほど
ネガティブな「見立て」がうじゃうじゃ出てきて
「そこまで辛辣な見方をしなくても・・」
と思うことがある。

ところが、アドラーが実際にしたというカウンセリングの様子を読むと
面談前にアドラーがクライアントの情報をもとに見立てた分析は非常に辛辣でネガティブなのだが、
本人に対してはポジティブに受け取れるような言い方しかしていない。

別に、相手に隠しているとか嘘をついているということではない。

アドラーという人は、偉大なまでに「楽観的」な人だったのだと思う。
楽観的というのは、「何とかなるから大丈夫」と考える「楽天的」とは違う。
楽観的というのは、ネガティブな面について考え抜き、つまり最も最悪な事態を想定しながらも、
最終的にはポジティブに考える、つまりは「どんなに最悪な状態になったとしても、打つ手はあるし、うまくいくだろう」と考えられることをいう。


アドラー心理学は、別名「勇気の心理学」といわれたりするが、
実は、アドラー自身は「勇気づけ」とはこれこれこういうものだ、
みたいなことはほとんど語っていない。

アドラーのお弟子さんたちや仲間がいうには、
「アドラー自身が勇気づけそのものの人だった」
「誰もアドラーのようにはできなかった」
らしい。

これまた私の勝手な憶測だが、
本人にとっては至極当たり前にしていることについて、
本人がそれを「説明」することは難しいものである。

だから、アルフレッド・アドラーという人はきっと、
患者だからとか治療につながるからとかいう戦略からではなく、
人間に対して常に「勇気づけ」の人だったのではないか

と思うのだ。


憶測による私のまとめは次のことだ。

アドラーは、トラウマの存在を否定していたのではなく
「トラウマはなくならない」という考えの方を否定したかった
のだと思う。

仮にトラウマについて彼なりに思うところがあったとしても、
患者さんに
「あなたが言っているトラウマは本当はありませんよ」と
相手を否定するようなことは絶対に言わなかったと思う。

なぜなら、それを伝えても意味がないことを誰よりも知っていたから。

彼が治療でしていたことは
あくまでも患者さんへの理解と協力を示す対等な姿勢であり、
患者さん本人が自ら自分に気づく手助けをすることはあったとしても、
「トラウマは存在しない」
なんて人への尊敬がない発言は、しなかったはずである。


最後に。

「トラウマは存在しない」の言葉に勇気づけられた人にとっては
それが真実だろうし、
それがアドラー心理学だという認識で合っていると思う。
アドラーは「自分の心理学は使ってもらってナンボ」と考えていた人だったようだから、正しいとか正しくないとかアドラーが言ったかどうかより
それで誰かが幸せになるのなら天国にいるアドラーにとっても本望のはずだ。

でも、傷ついている人に対して
「トラウマなんてないんだよ」と伝えることは、ちょっと違うと思う。
その言葉は時に、相手を傷つけかねない。

アドラー心理学は人が幸せになるためにあるのであって、誰かを傷つけるためにあるのでは決してないことを、
最後に書いておきたい。

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