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課題の分離

先日、周りの人の反応の低さから
自分の不甲斐なさを感じて落ち込んだ。
 
それをコーチに話したら、
「他人がどう思うかじゃなくて
自分がどれだけやったか、でしょ!」
とぴしゃりと言われて、
ほっぺを引っ叩かれたような思いがした。
 
そうだった、
不甲斐ない自分がダメなのではなく
他人がどう思おうと悔いが残らないほど
自分にできることはやったのか、
それが目を向けるべきところだった。
 
他人の評価で、自分の価値を測らない。
自分の課題は、最善を尽くすことだけ。

 
アドラー心理学に
「課題の分離」
という言葉がある。
 
アドラーが言ったことではないらしいが、
それはこの際どちらでも良い。 
 
重要なのは
自分の価値を
他人に決めてもらうか、
自分で決めるか、
選んでいるのは他ならぬ自分自身で
自分で「選べる」ということだ。
 
「ニーバーの祈り」
にある言葉を思い出す。
 
『神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、
変えることのできるものと、
変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。』

 
これこそ「課題の分離」ではないか、と思う。
同時に、これができない時に人は苦しむのだと思う。
 
私たちは、過去の出来事や周りの人の目に
自分の感情が引っ張られて
落ち込んだり悔やんだりする。

でも、苦しいのは
自分ではどうしようもできない過去や他人を
なんとかしたいと思ってるからなのだ。
 
それは同時に、
自分が何かすれば変えられることはあるのに
それには立ち向かいたくないから
過去や他人を理由に避けているともいえる。
 
これを
「言い訳」
とズバリ表現したアドラーは
なんて厳しいとも思うが
その通りだなと思う。
 
なぜなら、
もしも自分に出来る限りのことを
やり尽くしていたのなら、
他人がどう思おうと
「やれるだけのことはやった」
と自分に胸を張って思えるだろうから。

 
過去や他人に囚われている時、
本当は、過去や他人は関係ない。

「もっとできることがあったかもしれない」
「別のやり方ならうまくいったかもしれない」
『本当の自分はこんなはずじゃないのに』

とどこかで思っているのに

「もっとできること」や「別のやり方」
をやろうとしないから
自分が変わることの方を避けようとするから
心が苦しくなるのだ。
 
それは、そこに
出し切っていない自分の「可能性」が
見えているからではないだろうか。
 
自分の可能性を出しきれていないことに
自分が悲しんでいて、
本当は自分の可能性をもっと発揮したいのにという
心の悲鳴のように私には思える。
 
変えるべきなのは、
過去でも他人でもなく自分の方だ。
 
それは「変えられるのは自分だけ」
ということだけではなくて、
本当に変えたいのはきっと
過去でも他人でもなく、
他ならぬ「今の自分自身」の方だと思うから。
 
そのために「最善を尽くす」のは
当たり前すぎるかもしれないが
それは結果を得るためだけではなくて、
「自分ができることをただやる」ことだけが
苦しさから抜け出る唯一の道だから、なのだと思う。

同時にそれが、
他人の評価で自分の価値を測らなくなる
たった1つの方法なのだろう。

 
歩みを止めなければ、
結果は後からついてくる。

そしてその結果は
自分がそこに全力を注げていれば
どんな結果であろうと受け入れられるし、

たとえ望んだ結果と違ったとしても
別の結果を生み出そうとする
更なる歩みへと繋がっていくのだろう。

 
立ち止まっても
逃げ出しても
間違えてもいいけれど

それでも尚私たちは前に進みたいと思っていて
それはいつからでも始めることができることは
忘れたくない。

忘れちゃいけない。

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