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俳句のいさらゐ ▣◙▣ 松尾芭蕉『奥の細道』その七。「閑さや岩にしみ入る蝉の声」

❃ 目に映る光景を詠む一貫した創作姿勢

旅ゆく芭蕉  昭和41年 ポプラ社 「芭蕉 ( 世界伝記全集 ; 22 )」より  土村正寿によるイメージ画

❂ 蝉という言葉からつながってゆくもの

今回は、『奥の細道』より、現在の山形県、出羽国立石寺で詠まれた
閑 ( しづか ) さや岩にしみ入る蝉の声     
の考察。
この句を、一文字ずつしげしげと見ていて、蝉の文字からふと蝉吟の名が浮かび、こう思った。
そうだ!かつて芭蕉が仕えた主君が、蝉吟という俳号を持っていて、芭蕉もともに俳諧を学びながら、この人は若くして亡くなった のだった ( ※ 芭蕉より2歳年上 25歳で病死 ) 、とすればこの句の「蝉」には、亡き蝉吟をしのぶ意味がこめられているのか?
しかしこれはすでに出されている考えだろう、と思い直し調べてみると、木村草弥氏のブログ「Kー SOHYA  POEM  BLOG」に、この説の簡略適切な紹介があった。

芭蕉は若き日、故郷の伊賀上野で藤堂主計良忠 ( 俳号・蝉吟 ) に仕えた。元禄2年は、旧主・蝉吟の23回忌追善の年にも当る。
「岩にしみ入る」と詠まれた山寺の岩は、普通の岩塊ではなく、岩肌に戒名が彫られ、板塔婆が供えられ、桃の種子で作った舎利器が納められる。
つまり、あの世とこの世を隔てる入口なのである。
俗に「奥の高野」と言われ、死者の霊魂が帰る山に分け入り、死の世界に向き合った芭蕉が、自分を俳諧の道に導いてくれた蝉吟を悼み、冥福を祈って「象徴的」に詠んだ句
──それが、この「閑さや」の句だ、という説がある。
私は、この説に納得するものである。

木村草弥氏のブログ「Kー SOHYA POEM BLOG」より
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また、共立総合研究所特命研究員 三矢昭夫氏によるネットコンテンツ「三重の文化歴史探訪 松尾芭蕉」の2012.5.11の記事にも、こうあった。

蝉吟も大名家の子弟としての教養である漢詩・ 八代集・新勅撰集・源氏物語・伊勢物語・狭衣等々 を指導者に学び、芭蕉も小姓として仕えながら一緒に学 んだと思われる。

「三重の文化歴史探訪 松尾芭蕉」執筆者・三矢昭夫 2012.5.11

それを知った上で、私が立石寺を訪れたときの現地での実感も思い返して熟考してみて、ふと思いつきはしたものの、「蝉」に蝉吟を示す隠れた意味があるとまでは言えないというのが、私の解釈である。

その大きな理由は、『奥の細道』は、実際に目に映ったもの、そこに存在していたものを対象に、そこで感じた思いを詠んでいる、と思うからだ。このルポルタージュ的な感覚が、『奥の細道』をいきいきと読ませる大きな要素だと思う。
たとえば、笠島にゆこうとした道は、「五月雨に道いとあしく」て、その実景のままに
「笠島は いずこさ月のぬかり道」
と詠み、平泉では「秀衡が跡は田野に成て」いるのを見て、
「夏草や兵どもが夢の跡」
と詠んでいる。この態度は『奥の細道』一巻を貫く。

山形県 立石寺 ( 山寺 ) 風景

立石寺では蝉の声が聞こえていたのは確かだろう。聞こえていなかったとしたら、芭蕉はわざわざ句に、蝉吟の名を連想させるように、声も聞かなかった蝉を持ち込んだりはしない。つまり、亡き主君の追悼を観念的に表現する意図があるとは言えないのだ。

ただし、こうは言える。芭蕉には俳号に思い入れがあったのも確かである。これは、俳人としてはごく当たり前のことだろう。たとえば『奥の細道』の旅では、山中温泉の宿の俳諧を嗜む14歳の若主人に、自分の俳号桃青からとって桃妖と名を与え、「桃の木のその葉散らすな秋の風」という句も添えている逸話がある。
だからその意味では、まったく蝉吟とはつながらない句とも思わない。蝉という文字を入れて句を詠むのだから、蝉吟の俳号は当然脳裏に浮かび、ちらと亡き旧主藤堂主計良忠を思ったのも確かであろう。

旅ゆく芭蕉  昭和41年 ポプラ社 「芭蕉 ( 世界伝記全集 ; 22 )」より  土村正寿によるイメージ画

❃ 芭蕉に刺さる、蝉の声の消えたあとの静寂

❂ 他の句にも共通する心象感覚

上に述べた「私が立石寺を訪れたときの現地での実感」はこうである。
訪れた季節はこの句とは違い11月であった。当然蝉の声はなかった。観光客も大勢いて、また雨上がりの薄日が戻って来た天候であり、芭蕉が佇んだ環境とはずいぶん異なっている。その点、なまじ同じ季節に訪れて、現実の風景に芭蕉の句を合わせることに捕らわれずともよく、秋の風情の中で感慨にふけることが出来た。

芭蕉好きの人ならよく知ったことであるが、立石寺は急峻に立った岩を仰ぎながら登ってゆく巡拝路になっている。一息つくのに足を止め、眺め降ろしてもやはり岩である。
ずいぶん上った地点で見下ろしたとき、壺中天地ということばが浮かんで来た。もちろんこの形容にいう壺は酒壺なのだが、岩に囲まれて、幾重にも折れ曲がり登ってゆく狭隘の空間が、天然の壺の中のように感じられたからだ。目をつむり、芭蕉の句の感覚を脳裏に浮かべた。

晩年の芭蕉像 ( 門人) 許六筆

浮かんで来た別の句があった。芭蕉は、立石寺のあと訪れた羽黒山で、
涼しさやほの三か月の羽黒山
の句を残している。
この句の趣は、ここ羽黒山では、ほのかな三か月ゆえに、月光も乏しいのがどことなく頼りない風情を持ち、涼しさを醸し出している、と感じた点にあると思う。
閑さや、の句もまた、その趣につながる感覚だと思った。芭蕉の聞いたのは、蝉しぐれのようなあわただしい声ではない、かそかな声なのだと思った。 ( 羽黒山の句が、照り渡る満月ではなく三か月であり、そこに感興を覚えたように ) 
さらに「土石老て苔滑 ( なめらか ) に」という本文前書きも、句の裏に潜んでいると思った。
当日は寺のふもとに宿を決めているため心寧く、この日最後の物見遊山の気分であるのも、穏やかな空気感を持つこの句を生んだ隠れた要因だろう。
よって私の句の解釈は以下のようになる。

❂ 静寂の深さが芭蕉をつかまえて‥‥

蝉の声は、辺りを圧する喧噪ではなく、細く消え入りそうな弱い響きだ。その蝉の声を聴き、石段を上り来て途中一息ついていると、ふっと声は掻き消えてしまった。
すぐに鳴き始めるかと耳をそばだててみたが、それよりあとは蝉の声は聞こえず、また岩々の連なりに風音も殺されて、ひときわの静寂が辺りを包んでいる。
ああ、蝉の声の余韻は空には残らず、三方を囲んでいる岩肌の苔に吸い取られていったようだ。山寺の寂寞は、私に深い瞑想を与えようとしている。いや、( 俳人として ) ゆくべき道定まらぬ私を、責めているのでもあろうか。

                                                     令和6年2月         瀬戸風  凪
                                                                                              setokaze nagi



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