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ワタクシ流☆絵解き館その174 続編・備後三原城絵図から見えて来る縄張りの秘密(天守台編)。

前回、小早川隆景築城の海城である備後三原城は、陸側からの防御面にも隠された機能があり、その最大の機能として船入櫓があることを述べた。
船入櫓はその機能的な名とは違い、いわば捨て身の戦術として、出丸(築出し)に誘い込んだ敵勢を、川の水を引き込むことで水攻めして足止めしたのち、一挙に銃撃を行うための砦であると推理した。

現状と三原城域旧姿比較図に筆者の説明を挿入 元図は三原市作成

■ 西国道を塞いで堅固な門が設けられた

しかし、城内への東からの入り口である東大手門を突破され、二の丸本丸を左手に見るかたちで、西国道に沿って敵勢が入って来るという想定も当然しなければならない。
その進路を阻むのが、西国道の真ん中に設けられた後藤門だ。備後三原城の絵図から、後藤門周辺の様子を拡大したのが下の図版である。
道は鍵曲がりになっていて、侍屋敷の背後を回っても、この辺りに出て来る。敵勢はここで停滞せざるを得ない構造だ。これを天主台側から見れば、敵が細く横並びになっている状態と言える。
この列に向かい、真向いの天守台から一斉射撃を行う。もちろん、敵勢も応酬する。しかし上から撃ち下ろす方が強く正確というのが、戦法の定理である。

三原城明治時代の古写真に説明文上書き
三原城絵図より 江戸時代
一部復元されている後藤門の現地説明ボードより

■ 浦宗勝という隆景の股肱の臣

天守台から堀を隔てて面前に後藤門が設けられたのは、敵をここに留めて天守台から一斉に銃弾を浴びせるという戦術のためと考えるのが、もっとも納得がゆくのではないか。
むしろ、ここまで敵に侵入させて陣列を間延びせざるを得ないようにするために、三の丸、二の丸、本丸に対面して、西国道が真っすぐにつけられているように見える。道沿いに植樹されている様子も見えない。
もし三の丸が占拠されそうになっても、やはり二の丸から撃ち下ろすことができる。本丸、二の丸、三の丸の順で、高さは低くなっている。
本丸、二の丸は一体となって周囲を堀と海とで隔て、三原城の中でも独立した城砦構造になっている。
この設計原案は、隆景の右腕と言える存在、重臣の浦宗勝によるものと筆者は考える。浦宗勝は、安芸の国忠海の賀儀城(かぎじょう)を本拠としていた。
賀儀城の古写真を見ると、海に突き出した砦の形状で、敵が来襲するであろう陸側の方が細くなっている丘を選んで城を築いたのが見て取れる。その形を原形としたのが、三原城の本丸二の丸の姿であると考える。

浦宗勝築城の賀儀城址古写真
三原城明治時代の古写真に説明文上書き

現存する三原城の天守台址からの見え方が、西国道ーつまり敵勢がいる位置との高低の差を、下の写真から感じ取ってもらえるだろう。

■ 天守台の名はカモフラージュ?

表向きは天主台と見せているが、真の目的は、船入櫓とともに、足止めさせた敵勢を銃撃、砲撃するための城内の砦である。
天守閣を乗せるための天守台なら、このような城内の隅の、堀ひとつ隔てて西国道を通した位置に設ける必然性を感じない。
街道をゆく者に、天主閣の威容を見せつけるために街道の近くに置くという考えは、小早川隆景は持っていなかったのではないかと思う。戦国の真っただ中を、明けても暮れても合戦という日々に生きた武将だ。戦国の世が熄むとはまだ確信してはいなかったと思う。
もし天守閣を乗せたら、砦の役目を持たせたこの戦術は成り立たなくなる。ゆえに、初めから天守閣を乗せる気のない天守台だったというのが結論だ。

■ なぜ三原城は、一国一城令から外れたのか?

なお、幕府の発した一国一城令があり、そしてその令は厳しく運用されていながら、江戸期を通し、例外として外様大藩である浅野氏広島藩には、広島城と三原城の二城が認められていた。極めて珍しい例だ。
三原城は、無視していいほどの取るに足らない小城という城ではない。三原領の石高三万石と言われる規模の城ではなく、小早川隆景が最盛期持っていた推定五十万石近い領地の経済力に相応する、施政の中心居城として築城が進んでいた。
初めに掲げた城域の現在との比較図でいえば、その城域のなかに、現在では、新幹線駅を含んでJR三原駅、小学校2高、中学校1高、イオンショッピングセンター、市立図書館、大型ホテル2軒、総合病院1、その他高層マンション、銀行など、街の機能の中核施設があらかた含まれるほどの規模である。
徳川幕府にとっては、潰すべき城である理由は揃っている。それを存続させた。理由は何か。
大きな規模の、しかし無用となった城をあえて存続させることで、江戸期に安芸備後を治めた福島氏、浅野氏という大名の力を削ごうとしたか、あるいは徳川家康が、豊臣家大老として接した小早川隆景の人格に感じ入っていたために、隆景亡きあと、そのモニュメントとしての城を潰すのを惜しみ、その意志を伝え残したかのどちらかしか理由はないと思う。
ただ後継の小早川氏に対しての改易処分は容赦なかったけれど、それはもう、家康亡きあとのことだ。
備後福山城という譜代の城を天下普請で江戸初期に築城しているが、山陽道の抑えを福山城の役割としたことと、福山城から十里ほどの場所で、福山攻略の道筋に当たる位置にある三原に、倒幕勢力に利しかねない大きな構えを持った城を許していたことの矛盾は、幕府の統治の思想からすればやはり、謎と言えるだろう。

福島、浅野の両氏とも、一国一城令に反することになり、徳川幕府の機嫌を損うかもしれない三原城の存続を、強く願い出る必要もない。むしろこの大きな城を、取り壊す費用の捻出の方が負担になったかもしれず、福島氏、浅野氏には、ありがたい幕府方針であったと言えるような気がする。

                          令和4年8月   瀬戸風  凪


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