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詩の編み目ほどき⑫ 宮沢賢治「永訣の朝」

今回は、宮沢賢治の名を不朽にしている名作の詩を読み解きたい。

            永訣の朝              宮沢賢治 

   けふのうちに
   とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
   みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
       ( あめゆじゆとてちてけんじや )
   うすあかくいつそう陰惨  (いんざん ) な雲から
   みぞれはびちよびちよふつてくる
       ( あめゆじゆとてちてけんじや )
    青い蓴菜( じゆんさい ) のもやうのついた
         これらふたつのかけた陶椀 ( たうわん ) に
         おまへがたべるあめゆきをとらうとして
         わたくしはまがつたてつぽうだまのやうに
         このくらいみぞれのなかに飛びだした
                      ( あめゆじゆとてちてけんじや )
         蒼鉛 ( さうえん ) いろの暗い雲から
         みぞれはびちよびちよ沈んでくる
         ああとし子
         死ぬといふいまごろになつて
         わたくしをいつしやうあかるくするために
         こんなさつぱりした雪のひとわんを
         おまへはわたくしにたのんだのだ
         ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
         わたくしもまつすぐにすすんでいくから
                     ( あめゆじゆとてちてけんじや )
    はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
    おまへはわたくしにたのんだのだ
    銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
    そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
    …ふたきれのみかげせきざいに
    みぞれはさびしくたまつてゐる
    わたくしはそのうへにあぶなくたち
          雪と水とのまつしろな二相系 ( にさうけい ) をたもち
         すきとほるつめたい雫にみちた
         このつややかな松のえだから
         わたくしのやさしいいもうとの
   さいごのたべものをもらつていかう
         わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
         みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
         もうけふおまへはわかれてしまふ
                        ( Ora Ora de Shitori egumo )
         ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
         あぁあのとざされた病室の
         くらいびやうぶやかやのなかに
         やさしくあをじろく燃えてゐる
         わたくしのけなげないもうとよ
         この雪はどこをえらばうにも
         あんまりどこもまつしろなのだ
         あんなおそろしいみだれたそらから
         このうつくしい雪がきたのだ
                        ( うまれでくるたて
                            こんどはこたにわりやのごとばかりで
                         くるしまなあよにうまれでくる)
         おまへがたべるこのふたわんのゆきに
         わたくしはいまこころからいのる
   どうかこれが兜卒の天の食に変つて
    やがてはおまへとみんなとに
    聖い資糧をもたらすことを
    わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

「春と修羅」より 旧かな遣い表記
瀬戸内海曙光

🧵① 詩に挿入した言葉は妹とし子の言葉だけ

この詩の中では、賢治は語り部の役割を貫いていて、実際の場面で交わしたであろう自分の言葉は挿入しなかった。それは賢治の直感だ。自分の言葉は夾雑物でしかないと感じて、兄妹の会話体とすることでとし子の言葉を濁らせたくなかったのだ。
同じとし子の最期の場面に材をとった詩「松の針」では、冒頭に賢治の言葉が入る。

さっきのみぞれをとってきたよ
あのきれいな松のえだだよ

この言葉を「永訣の朝」に入れていたら、詩の張りつめた空気が緩み、詩の印象さえ変えていただろう。入れていれば「永訣の朝」のとし子の言葉は、兄と妹の会話の、一方側の言葉という面が表に出て、言葉の屹立性を弱める。

屹立した言葉であるから、たとえるなら「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」という警句が教えている驚きにのように、何度目にしても、今この時点で受け取っているような鮮烈さを失わない。  
ことに、
      ( Ora Ora de Shitori egumo ) 

の絶唱は、人生の揺るぎようのない真理を言い抜いている。
( わたしはこうしてひとりで逝くのだ ) という得悟に至って、人はこの世を去るのだろう。「Shitori egumo」の最後の一音、moは、方言として語尾につくものなのかもしれないが、詩を読む者には、余韻が消えやらない「も」である。つぶやいてみると、心がつらくなる「も」である。

🧵② 気象用語で、みぞれ、だけがひらかな表記の意味

この詩には天然の事物や気象の言葉がいくつも出て来るが、みな漢字表記だ。羅列しよう。 
雲  暗い雲  雪  銀河  太陽  気圏  水  二相系  雫 
みぞれは漢字表記では霙。難読漢字なので避けた、という推定も成り立つが、雫も難読漢字だろうし、読みのためにルビをふってもいいわけだ。
なぜ、みぞれとひらかな表記にしたか。みぞれがどう表現されているかにヒントがあるだろう。

   「陰惨な雲から/みぞれはびちょびちょふってくる」
   「このくらいみぞれのなかに」
   「みぞれはびちょびちょ沈んでくる」
   「みぞれはさびしくたまっている」


最愛の妹がみまかろうとしているけれど、どうすることもできない慚愧 ( ざんき ) の思いが、暗鬱な影を帯びてみぞれに映っている。
肌を打ち、濡らし、芯から身を凍えさせるみぞれ。死の床にある妹の、つらく、苦しい現実のありように、雨かんむりに、「英」と書く「霙」の字を賢治に選ばせなかった。

紅雲細動

🧵③「天ゆ誦」と聞こえてくる「あめゆじゅ」

     ( あめゆじゆとてちてけんじや )

詩の中で繰り返される「あめゆじゆ」とは、雨雪の方言であり、これは妹の末期のそのままの言葉として演出のないものであろうし、この詩から受ける哀切で胸迫る思いの、大部分はこの言葉の力と思うが、目を閉じて、この言葉をつぶやいてみるとき、私には別の響きが胸に起こる。
「天ゆ誦」という言葉が浮かぶのだ。
「誦 ( じゅ ) 」とは、お経の文を節  ( ふし )  をつけて朗誦すること。「ゆ」とは「~から」の意味を持つ古語。「天ゆ誦」という通用の熟語があるわけではないから、私だけの独特な字の当て方だ。もちろん、そういう読み替えを賢治が意図したとは考えない。
しかし発表された詩は読者のもので、読者が読み方を作ってゆく。いい詩ほどその作用が働く。
( 賢治兄様、天上の朗誦の経を、今私の耳元までとってきてください それを聞きながらわたしは逝きます ) 

🧵④ 茶碗の藍色の模様は現世の象徴

   わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
           みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
           もうけふおまへはわかれてしまふ

宮沢賢治「永訣の朝」部分

亡くなった人の使った茶碗を葬儀の場で割る儀式が仏教にはある。魂にこの世の未練を絶たせるためとも、あるいは、来世では現世の逆になり、茶碗が元の形に戻るのでそのために割るともいう。
とし子の葬儀においてもその儀式が行われたことであろう。とし子の死に合わせて壊す茶碗に、とし子が生きた現世の時間を見ているのだ。
「みなれたちやわんのこの藍のもやう」に、賢治もまた別れなければならない。とし子とともにいる時間は、再びは得られないという自分への言い聞かせである。

海岸に流れ寄った陶器の破片のうちには、藍色の模様の残ったものをしばしば見る。陶器の藍色は色落ちしにくいからだ。
その藍色模様の陶片を手に取ると、その陶器が使われていた様々な人生への、遥かな日々の様子に思いが自然に導かれる。これはただ白い陶片では起きない心の動きである。
陶片の藍色模様には、人の平ゝ凡ゝな、生活に追われた日々の時間を綴った心の日録の扉絵の働きがある。

🧵⑤ あめゆじゆ、という末期の水

    
      この雪はどこをえらばうにも
           あんまりどこもまつしろなのだ

      あんなおそろしいみだれたそらから
      このうつくしい雪がきたのだ

その藍色模様の茶碗に、雪を掬ってくる行為は、とし子の人生を厳かに照らすことに他ならない。雪のかがやきは、みぞれの対照として、清浄を極めた救済の曙光である。その雪は、末期の水となったであろう。

      おまへがたべるこのふたわんのゆきに
              わたくしはいまこころからいのる

賢治もまた、その碗の 雪=あめゆじゆ を口にしたのだ。賢治の心は、残される身でありながら、死にゆくとし子とともに、末期の水を喫する思いにある。

                 令和5年11月      瀬戸風  凪
                                                                                                       setokaze nagi

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