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俳句のいさらゐ ☤☤☤ 松尾芭蕉 『野ざらし紀行』より。「しらげしにはねもぐ蝶の形見哉」


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芭蕉の句「象潟や雨に西施がねぶの花」は、定型の語数を整えるために、ねじれた表現になっている。定型を崩し、その意を読んで表現すれば「雨の象潟の 雨の中なるねぶの花は 西施の面影を見るがごとし」ということになる。
今回取り上げる句「しらげしにはねもぐ蝶の形見哉」もまた、ねじれた構成になっていると言える。
象潟の句と同じように意味を優先して書き改めれば、
「しらげしに」は「しらげしはわたしの目にはこう見える」
という意味であり、
「はねもぐ蝶の形見哉」は「蝶がはねをもいで、形見に置き捨てて去ったものなのだ」
という意味だと私は解釈している。
つまり、花びらに、もがれた蝶のはねを幻視しているのだ。それにより、白芥子の花びらと蝶のもがれたはねとが同化していることになる。

芭蕉賛 越人画 「杜国閑居の図」

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この句は、名古屋で米問屋を営んでいた本名坪井庄兵衛、俳号杜国(とこく)という『野ざらし紀行』の旅で出会った青年におくった句である。
『野ざらし紀行』の旅は貞享元年 (1684年) 8月から、故郷伊賀上野への帰郷をはさんで貞享2年の4月までという長途。二人が出会ったのは名古屋で、杜国28歳、芭蕉41歳であった。12月には杜国亭に招かれて「雪と雪今宵師走の名月か」と芭蕉は詠んでいる。

どの解説書にも、しらげしが杜国で、蝶が芭蕉と解釈している。しらげしと蝶が杜国と芭蕉の関係である暗示は、そのとうりだと私も解釈した上でのことだが、咲いているしらげしと、はねをもいでゆく蝶をそれぞれ主体に見るのは、句の見方としては単純すぎる気がしている。
私はそう読むべきではなく、しらげしに蝶が舞い降りて、蝶はその花芯から充分に蜜を吸い、しらげしもまた蝶に蕊の花粉を注いでいた時間の、互いの陶酔こそが主体だと思う。
植物と蝶の自然の営みが見せる、静粛で、厳かで、有益な時間に喩え得るほどのよい時間を、俳諧を通してあなたと私は持った、という認識がこの句の
下地になっているのだ。

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蝶はしらげしを離れる。けれど、蝶がしらげしと同化していた記憶は、もう消えることはない。蝶がもいだはねが、しらげしの花びらになり替わっているのだから。
言葉を変えれば、私があなたと過ごした時間は、あなたがいるかぎり、あなたの中に生き続けるでしょう、そしてあなたのことを思い出すとき、私の心にも生き続けるでしょう、という信頼関係ができたことへの礼辞である。

なお、誤解を生じないようにしておこう。「しらげしに蝶が舞い降りて、その花芯から充分に蜜を吸った時間の陶酔」「しらげしもまた蝶に蕊の花粉を注いでいた時間の陶酔」と上に述べた部分は、一部の解説書が興味本位に憶測するような、男色関係があったことを示して使ったわけではない。
そういう見方には全く与しない。( 有力俳人の小澤 實さんは、この説を支持しているが ) 男色関係にあれば、否定もしないだろうが、あえて句にも詞にもしないだろう。それは嗜みである。私の上述の表現は、連衆として歌仙を巻き、俳諧の味わいを語り合った者同士に生ずる喜びを喩えた言辞である。

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小林秀雄が講演で、伊藤 仁斎(いとう じんさい、寛永4年(1627年)― 宝永2年(1705年)の生涯で芭蕉とほぼ同時代の人  芭蕉の生まれは1644年 ) の京都堀川の私塾では、旦那衆までもが俗世の色恋遊びを放擲して、人はどう生きるか、を学ぶために熱心に通って聴講したと述べているのを聴いて、江戸の泰平の世の知識人たちの求めたのはそれであり、すなわちそこに愉楽があったと私は大いに頷いたが、人間の生き方を示し合い、教わり合える師と門弟の関係が出来たときには、至上の陶酔がともなうものだと信じている。
杜国には、芭蕉の示す人生観に、真っすぐに吸い寄せられてゆく無垢な面がきっとあって、芭蕉はその素直さ、溌溂さに好感を持ったのだと思う。息子を得たような思いも重なっていただろう。

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芭蕉は、「はねもぐ蝶」のような、陳腐になりかねない過剰な表現をあえて句に持ち込む。例をあげれば、
「行く春や鳥啼き魚の目は泪」
であり、
「魯の声波を打つて腸氷る夜や涙」
であろう。
そういう過剰な表現方法によって使われた、「はねもぐ蝶」という措辞が、色恋を暗示したかのような、やや妖しげな雰囲気この句にまとわせているということだ。

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以下の記述においては、web記事 伊藤洋「芭蕉DB」を参照した。
貞享元年(1684年)11月頃、芭蕉は名古屋の門人たちと歌仙五巻を興行した。その成果が、発句が五巻いずれも冬の季であるのに因んで、題名が『冬の日』ー山本荷兮 ( やまもと・かけい ) 編ーとして伝わる歌仙である。

興味深いことに、この歌仙の中に芭蕉が「はねもぐ蝶」に通ずる「片袖とく」を、杜国が「芥子」を使っているのだ。杜国に句を送ろうとした芭蕉の心中に、この連句があったのだろうと思う。自分の出した「片袖とく」が「はねもぐ蝶」のイメージになり、杜国が出した「芥子」にしらげしの花のイメージが浮かんで来て、「しらげしに‥‥」の句になったのではないだろうかと思わせるものがある。
その部分を以下に引用する。            

襟に高雄が片袖をとく      はせを(芭蕉)
 【句意】襟に吉原の紺屋高尾(高名なおいらんの名 風雅の象徴的存在)の片袖をちぎったものを巻いているのが風流人であるよ。
あだ人と樽を棺に呑ほさん     重五
 【句意】高尾のような風流な佳人と呑めるのであれば、一樽の酒でも、棺に入ってもいいという覚悟で飲み干したいものであるよ。
芥子のひとへに名をこぼす禪(禅)  杜国
 【句意】そういう戯れは、けしの花がたやすくはらりと散るのと同じで、名声を一瞬に失うことだと禅では説くことでしょう。

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今栄蔵『芭蕉年譜大成』( 平成6年 角川書店刊 ) によれば、「しらげしに」の句を詠んだのは、貞享2年(1685年)4月頃と推定している。上の『冬の日』の句会から、およそ半年後のことである。

                 令和5年4月   瀬戸風  凪
                                                                                             setokaze nagi




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